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赤鬼は もう 泣かなくていい

『泣いた 赤鬼』という、切ない物語があります。

物語は、赤鬼が、村人と仲良くなりたいと思うところから始まります。お茶を用意して村人たちを誘うものの、村人たちは鬼というだけで怖がって寄り付かない。その様子を見かねて、赤鬼の友達の青鬼が、わざと村人に乱暴して、赤鬼が青鬼を懲らしめる、という茶番を提案します。赤鬼は青鬼の好意に感謝して、村人たちが見ている前で青鬼をやっつけて見せると、村人たちは赤鬼を信頼し、家に遊びに来るようになります。しばらくして、久しぶりに赤鬼が青鬼の家を訪ねると、青鬼は赤鬼に手紙を残して旅立ってしまっていました。

物語の巧みなところは、自分が赤鬼だったとしても、青鬼だったとしても、同様の行動をとるだろうなぁと、容易に想像ができるところだと思います。どちらも(そして村人も含めて誰も)悪くない。悪くないのに、切ないから、その切なさが一層深まるのでしょう。

赤鬼は、ただ村人と仲良くなりたかっただけなのです。人に嫌われて当然という存在は、苦しいものだと思います。赤鬼は、村人に何か害を加えた訳でもないのに、ただ「鬼だから」というだけの理由で、遠ざけられ、怖がられているのです。
また、青鬼をやっつけるという茶番だって、提案したのは青鬼です。赤鬼としては、実際にやったらどうなるのか、あまり深く考えずに、ただただ青鬼の好意が有難かったんだと思うのです。

一方の青鬼には、赤鬼の苦しさが誰よりも分かっていたんだと思うのです。そして、自分の大切な人が苦しんでいる姿を見るのって、苦しいです。何ともできないから、自分のことより余計に辛い。
だから、赤鬼の苦しさを手っ取り早く解消する方法を提案したんだと思うのです。それは赤鬼のためでもあったけれど、自分自身のためでもあったように思います。

『泣いた赤鬼』は、国語や道徳の教科書に掲載されていたこともあります。小学生向けには、青鬼の振る舞いを「自己犠牲の友情」として伝え、友達について考えようと促すことが多いようです。
そんな風に読み解くと、この物語はとてもやりきれないんですよね。

でも。
鬼や赤鬼の気持ちを、違う風に読み解くこともできそうです。

最初に、あれっ、と思ったのは、青鬼の行動です。
私には、青鬼の提案は、無私の行為だとは思えないのです。青鬼は、自分がワルモノになって赤鬼を引き立てることを提案しながら、「こんな風に、友達のために犠牲になるオレ、かっこいい!」って思っていたような気がしてならないのです。(赤鬼のことを思いやる人格者な青鬼よりも、自己犠牲の自分に酔っている青鬼の方が可愛気があって、私は好きです。)

カッコいい自分を実現できた青鬼が、再びカッコよさを発揮できる場所を求めて旅に出たのだとしたら、それはそれで、1つの生き方なんじゃないかな。少なくとも、切なくはない。

赤鬼についても「村人と仲良くなるために、本当の友人だった青鬼を失った」という解釈は、あまりに紋切り型な気がします。
「本当の友人になれるのは鬼同士」と言う思い込みが伝わってくるのです。鬼と人間の間にも、本当の友情が育めるかもしれないのに。
また、「旅に出たら、もう友達じゃなくなる」と決めつける必要もないと思うのです。本当の友達なんだったら、遠く離れていようとも、相手に想いを馳せ、そのことで自分が勇気づけられたりするもんだろう。

赤鬼も、青鬼も、それぞれに自分の在りたい生き方・自分の在りたい他者との関わり方を追求して、それを果たすことができたような気がしてきました。

赤鬼の「人間と仲良くなりたい」という願いは、生まれ持った違いで線を引くのではなく、違う生き物同士が尊重し合い、関わり合いたい、という願いです。そして、誰かを愛して喜ばれ、他者に愛され認められることに生きることの喜びを感じる。

青鬼の「旅に出る」という決断は、遠く離れていても、お互いに大切に思う気持ちを持ち続け、友達であり続けることができる、という信念があるからできたことです。そして、自分で自分のかっこよさを認め、自分らしく在ることに誇らしさを感じる。

『泣いた赤鬼』が世に出てから、90年以上がたち、生きることの尊さは、自分で決めていくことが大切、という風に、変わってきたと感じます。
その文脈で見れば、赤鬼も、青鬼も、それぞれ自分の生き方をちゃんと全うしています。別れは一時的には寂しいかもしれないけれど、ちっとも切ないことじゃない。
赤鬼は、もう泣かなくていいよね、と私は思います。

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