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古文漢文不要論について思うこと

定期的に発生する「古文漢文不要論」ですが、今年も共通試験の時期にちょっと盛り上がったようです。

この手の話題は、「社会にとっての必要性」「個人にとっての必要性」の二面を分けなければ混乱しそうに思っています。

「社会にとっての必要性」という意味においては、古文漢文の学校教育をやめてしまうと古文漢文が必要な学問の専門家が育たないという点があります。これはどの学問、というかどの専門分野でも同様で、裾野の広さとトップ層の実力はほぼ相関関係にあると思っています。
日本から大谷翔平やイチローが輩出されたことの原因の少なくとも一部には、日本における野球人口が多いことが挙げられるでしょう。そして、日本からクリケットの名選手が生まれないのは、日本のクリケット人口が少ないからです。学校教育における古文漢文をやめてしまった場合、日本の古文漢文を必要とする学問(史学、文学など)の研究レベルは大幅に下がることとなるでしょう。
そもそも実用性が低い史学、文学はこの世には必要ない!というラディカルな意見もあるでしょうが、一般的にはある学問分野が極端に衰退するのは社会にとって望ましいことではないとされており、教育課程に古文漢文を残す大きな動機付けになっていると思います。

しかし、これは古文漢文を嫌う多くの学生にとっては知ったことではありません。「トップ層を育成する養分になるために古文漢文を勉強せよ」と言われて、苦手な古文漢文に取り組むモチベーションが上がるわけがないのです。
そこで、一般的には「個人にとっての必要性」という観点から、反論が試みられることが多いです。古文漢文を勉強すると、たとえば「日本文化への理解が深まって生活が豊かになる」とか「過去の文献に記載された誤りを読んで教訓にできる」とか、もっと卑近な例では「古文漢文の教養があるとモテる」とか…。しかし私はこれらはすべてまやかしだと思います。
私には、「受験に有利」という以外には、苦手な人が古文漢文がを学ぶ「個人にとっての必要性」は見出せません。よって、古文漢文が嫌いな人には「受験に必要なら我慢して勉強しよう。理不尽かもしれないがそうなっているから仕方ない」というしかないのだと思っています。

一方で、受験と関係なく古文的なものに触れようと思った際に、手に取るにはふさわしくない本が多すぎるという別の問題があると思います。
幸いにも学生時代に古文の授業や勉強を楽しいと思った人が、ちょっとイキって原文に手を出したものの注釈が少なかったために、苦手意識を持ってしまうということは多いのではないでしょうか。
個人的には、原文に触れたいと思った時には「新潮日本古典集成」一択としています。間違っても、岩波の「日本古典文学大系」を選んではなりません。または、昔の岩波文庫も最悪です。私の経験上、岩波系は注釈の親切さ、補足的に記されている現代語訳のわかりやすさが大幅に不足しているのです。「新潮日本古典集成」はこの点、初心者に優しい原文だと思います。(小学館の「日本古典文学全集」も読みやすいと聞くのですが、私はあまり読んだことがありません。)

新潮日本古典集成の「狭衣物語」冒頭。晩春を描く美しい書き出し。超親切な注釈です。

このあたりの、ガチの玄人志向な原文と、高校程度の古文の知識があればついていけるような原文の見分けがもっとつくようになれば、古文を読むのが好きな人が増える=「個人にとっての必要性」を見出す人が増えるようにも思うのですが…。

それはそうと、有名な作品には派生作品も多く発表されています。源氏物語ですと古くは後日談を書いた「山路の露」(鎌倉時代)や足利義政の息子を光源氏になずらえた「田舎源氏」(江戸時代)、最近では「あさきゆめみし」をはじめとしていくらでも作品をあげることができます。

個人的に好きなのは、まさに今連載中の「神作家・紫式部のありえない日々」です。

紫式部の源氏物語執筆は同人活動であったという設定。そして、同人活動にはつきものの二次創作ネタもあったりします。

個人的には「落窪物語」の帯刀×少将18禁が気になりますが、こういう漫画を通じて古文漢文を学ぶ「個人にとっての必要性」を見出す人もいるのかもしれない…と思ったりもします。

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