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web面談とテレビ電話、そして未来予想について

新型コロナ禍が社会に与えた影響の一つとして、web面談の急速な普及が挙げられるでしょう。以前からテレビ会議システムは存在しましたが、今のように広く普及したものではありませんでした。

突然ですが、今のようにweb面談が一般的になる前に書かれたイギリスの小説を引用してみます。画面越しに会話している母親に対して、直接会いに来てほしいと頼む息子の言葉です。みなさんは、これがいつ頃書かれたものかわかりますでしょうか?

ぼくの円盤の中に母さんらしい何かが見えているが、母さんを見ているわけじゃない。この電話で母さんらしい何かが聞こえているが、母さんの声を聞いているわけじゃない。だから、母さんに来てほしいと言ってるのさ。来て、ぼくのところに泊まっておくれよ。たずねて来て、顔を見合わせようよ。僕の考えている希望について話し合おうよ。

英語原文も載せておきます。

I see something like you in this plate, but I do not see you. I hear something like you through this telephone, but I do not hear you. That is why I want you to come. Pay me a visit, so that we can meet face to face, and talk about the hopes that are in my mind.

これは、E. M. フォースターにより1909年に発表された「The Machine Stops」(機械が止まる)から抜粋した文章です(日本語訳は「E. M. フォースター著作集5 天国行きの乗合馬車」小池滋訳 みすず書房(1996)より)。なんと100年以上前!先見の明としては見事なものだと思います。
(文末に文献情報載せておきますので、読みたい方は参考にしてください。)

それはそうとして、web面談が苦手な私にとっては、この息子の気持ちがよくわかります。なぜなら、web面談ではお互いの視線が合わないからです。例えば、お互いに画面の中の相手の目を見て話をしたと仮定します。すると、双方ともに相手が自分の顔ではなく、どこか別の方向を向いているように見えてしまいます。
これは、相手のモニターに映るこちらの顔は、こちらのモニターの外側にあるカメラを通じたものだからです。よって、お互い視線を合わせるためには、双方ともモニターに映る相手の目ではなくカメラを見なければなりません。せっかくモニターに相手の顔が映っているのに、モニターは無視してカメラを見るのは難度が非常に高いです。

東洋人は目で相手の感情を把握するのに対し、西洋人は口を見る習慣があるため、西洋人はマスクに対して拒否感が強いというような話がありました。(代わりに東洋人はサングラスに対して拒否感が強いとも言われます。)
もしこれが本当だとすると、西洋人は私ほどweb面談を苦手としないのでしょうか。

web面談が一般的になったのは最近のことですが、「テレビ電話」ということばはかなり昔からありました。私が強烈に覚えているのはこちらです。

確か、小学生のころにニュース番組で紹介されていたのを見たのだと思います。母親に「これ、すごく便利そう」と言ったところ、「こんなのあったらいつも部屋の中も服もきれいにしなければならないから、絶対流行らない」と言われました。今思えば母親は慧眼でした。

よく考えると、テレビ電話とweb面談は似て非なるものです。テレビ電話はあくまでも「電話」なので、突然かかってくるものです。一方でweb面談は基本的にはメールやチャット等の他の連絡手段で事前にアポイントを取って行うものです。よって、web面談では事前に身支度を整えるなどの準備ができるのに対し、テレビ電話ではそういうわけにいきません。
寝起きにうっかりテレビ電話に出てしまったら、顔も洗っていない寝ぐせだらけの顔を見られてしまうのです。即時的に連絡できる手段が複数ある今だからこそ、web面談はこれほど普及したのだと思います。

さきほどのフォースターの文章に戻ります。

I see something like you in this plate

この文章、スマホをはじめとした平面ディスプレイが一般的な今になって見ると特に何も感じないのですが、テレビ電話しかなかったころに見ると違和感があったと思います。なぜなら、テレビ電話はブラウン管が使われており、画面が湾曲していたので「plate」とはいいがたいものだったからです。

繰り返しですが、フォースターによるこの文章の初出は1909年。イギリスでブラウン管を使ったテレビが世界で初めて市販されたのが1937年なので、この時点でフォースターはブラウン管の存在を知りませんでした。よって、フォースターが想定していたのは映画のスクリーンのようなものだったか、またはそれより以前から普及していた「幻灯機」と呼ばれるスライド写真機のようなものだったと思われます。

そうだとすると、「plate」という単語の選択も納得いくものだと感じます。(邦訳の「円盤」というのはやや疑問に思えますが。)当時、テレビすらない時代にこの設定を思いつくフォースターは、やはり非凡だったのでしょう。

なお、タイトル画像は「こちら葛飾区亀有公園前派出所」のエピソードより。この話が1980年代後半に書かれたということを考えると、こちらも驚くほどの未来予想解像度だと思います。


(付録)「機械が止まる」について

私が引用した本は絶版ですが、比較的容易に古本のネット通販で入手可能です。

もっと安く読みたいかたは、日本語はamazonで私訳版が100円で読むことができ、英語版は著作権切れのために無料で開放されています。短編と中編の間くらいの分量なので、それほど気合を入れずとも読める長さだと思います。

また、読まずにおおよそのあらすじを知りたい方はこちらがわかりやすいでしょう。


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