見出し画像

書けるという安心感

四六時中noteというか自分、すなわちmigminのことについて考えている。その中で一つ気づいたのが「書けるという安心感」を良いのか悪いのか持ってしまったということだ。

この「書けるという安心感」とは何か。それは何も用意をしなくても家を出て仕事場に着くまでにはnoteを一本書き上げることはできるだろうという気持ちのことだ。

家から仕事場までは大体1時間半〜2時間、今まさに着くまでの電車の中でこれを書いている。今から30分ほど前、家を出たばかりの自分は「まぁ、着くまでには書き上がるだろう」という何も準備しないで安心しきった気持ちがあった。

本来なら下書きを用意して素材やnoteを書く目的をはっきりさせた上で書くのが望ましい。それができればクオリティも上がるし、より良い文章が出来上がると思う。

ただそんなことは一切しない…わけではないと思うが多分頭の中でこれをやっている。書きながらポイントを整理してこういう形に持っていこう、この素材はちょっと使えないな、とか色々考えながらnoteを書く。

クオリティをひとまず置いておいて書くというのは一つの妥協だ。ただこの妥協は贅沢な妥協だとふと感じる。

いろんな方々のnoteを見ていて書くネタがないとか毎日の更新が続かないというかいろいろな話を目にする。そのなかで書けるのは当たり前になり、クオリティまで求めるというのは一つの贅沢な話だと思う。

書くことについて調子の良いときに戻ったからなのかもしれないが、ここまで来たというのは自分にとって本当に嬉しいことだ。思えば遠くに来たものだ。

過去の自分と今の自分と未来の自分が同居した状態の中、今の自分と未来の自分が重なったとき一つのnoteが書き上がる。聞こえはいいが、それはただの締め切り効果と言えるのかもしれない。

#日記 #エッセイ #コラム #締め切り効果

いただいたサポートはサムネイルに使っているダンボー撮影の小道具に使わせていただきます。