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自分の内なる宇宙を感じるために

今日はめちゃスピなテーマです。

神様とは自分である。自分の中に宇宙がある。これは考え方というよりは感覚だと思うのです。

考え方っていうのは変えることもできるし、選ぶこともできる。でも感覚は感じちゃうものだから変わらない。

本当の理解というのは、体現できるということです。体現するには頭で考えとして持っているだけではムリで、感じて腑に落ちていないとできません。

感じて腑に落ちて理解していると本当に、自分が世界の創造主になっていくのだろうと思います。なぜかというと、それが自分だということを体現しているから。

とはいえ、人間しかも大人になっちゃっていると、神様=自分とか自分の中に宇宙があるって、どうしても頭レベルでまず理解しようとしちゃうので、それが感じて腑に落ちて理解するのプロセスを邪魔しちゃう。

わたしは特に、思考が優位になってしまうのでそうです。

そんなぼやきをキャッチしたのか、こういうアイデアが降ってきました。

自分=神様なら、その神様の自分を外に置いてみろ、と。

それまでは、自分=神様や自分の中に宇宙がある、という言葉は私の意識を中へ中へと向かわせ、自分という底なしの空間をどんどん潜って神様なり宇宙なりを見つけよう、感じようとしちゃっていたんです。

神様とか宇宙とか、はっきりしたイメージないし、そことつながっている、という感覚を得にくかったんです。私の場合は。

得にくいのでけっきょく、神様とか宇宙とかはやっぱりなんか頭上高いところにいる漠とした存在で、自分より尊いもの、怖れ多いもの、ってどうしても感じてしまう。

外に置くというのは、自分という存在の神格の部分をマトリョーシカのようによいしょと外して自分の外におくんです。姿かたちは自分そのものでOK。特に光輝いているなにかを想像しなくていいです。

目の前にあるのはこっちの自分と何一つ変わらない自分です。でも、その自分は神なのです。

神の御心のままに。そう祈るとき、目の前の自分の御心のままにということなのです。

神の御心のままに、っていうと、自分の考えなんかが及ばない崇高や深淵な意思なんだって思いません?

でも目の前の自分とおなじのが神なので、その神が望むことが御心なんです。

お腹すいたな、お昼はハンバーグがいいな、とか。
今日は青いピアスをしていきたいな、とか。
そんなちっちゃな望みを延々と生み出している。それが御心です。

でもそれが神なんです。神さまの、宇宙の、大いなる存在にお任せする、御心に従うって、そのゆらぎのように浮かぶ望みの声を聞き、その神格を喜ばせ続けること、そうなりますよね?

そして、この構造をさらに視点をひっくり返して、神格の私側から見ると、望みをかなえてくれる方の私はまるで魔法のランプのジーニー!

望めば叶う、喜ぶことだけを思えばいいんだ!ってことになります。

神は目のまえの、自分。どちらから見ても。

いやいや、神=自分。宇宙は自分の中にある。いくらそういっても、それじゃああまりにあまりでしょ。その否定、じゃあ何が例外でなにが本筋なのでしょう?

それは神や宇宙は崇高なものとしておきたい思考が邪魔しているだけ。

神=自分。宇宙は自分の中にある。シンプルに受け取り、このことにオープンになるなら、こういうことですよね。

だから、自分の声を聞くことが宇宙とつながることなのです。自分の望みをかなえることはわがままなんかじゃない。神様の望みなのです。他のなにがそれを上回るでしょう。

だから、他のことのために自分を犠牲にしたり後回しにしたりしてはいけないのです。

それはこの世でなにより神聖なものを、他のものより下に置くということなのですから。

自分のマトリョーシカの望みを甲斐甲斐しくかなえていると、それを助けるような出来事が起きます。本当に不思議ですが、不思議ではない。だって、神が望んだことが実現する、「御心がおこなわれる」ということに他ならないのです。


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