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私たちは「欲しい」のではなく「忘れたい」

おととい、少し心が乱れることがあって、というかそういう思考が現実に反応して浮かんで、ネガティブな気持ちになったのです。そのときちょうど前の「太く短くか、細く長くか」の記事を書いたあとで、その記事に自分が書いた「外側の出来事にどう反応するかで、変化に富むか平穏かは決まる。外側の出来事で決まるわけではない。」を思い出したんです。

すると、ああ、この心が乱れる感じを楽しみたかったんだね、っていう言葉が浮かんだんです。自分の中の自分に語り掛けるように。

この世に生まれてきた私の核は、遊園地を楽しむように人生体験を面白がっています。核には外側の着ぐるみみたいな、あるいはアバターみたいな私という意識がその出来事を喜んでいるか嫌がっているかは関係ない。

「ああ、この心が乱れる感じを楽しみたかったんだね」っていうのは着ぐるみの私が核にむかって語った言葉です。

まったく仕方ないな、って、やれやれって、小さい子がまだ遊びたい、泥んこになりたい、って言うのをあきらめてみている親みたいな気持ちになって、だったらこの体験はあなたのものだからあなたに返しますよ、っていう言葉が次に浮かびました。

この「返す」という捉え方は私のこの半年ぐらいのバイブルになっている『それはあなたのお金じゃありません』という本をもう5回ぐらい読んで定着してきました。

この言葉を声に出して言ったら、乱れた心がすっと落ち着きました。この乱れの要因は、何度も何度も何度も私におきてきたもので、それでもまだ私に起こるので「まだそれで遊びたいの?私はもうとっくにそこからの学びは終わってるけど?まだ残っているならちゃんと学びとれるようにしてくださいね!」と祈りました。

そうしたら今朝、ぜんぜん思いもしない方向から、その問題が解決される提案がもたらされ、とっても穏やかな心の状態を味わうことができました。

思わず「神様、ありがとう!!!幸せです!」となんども叫びました。

わたしは、その出来事が起きないことでもなく、その反対の出来事が起きてほしいわけでもなく、この心の状態がほしかった。感謝して、穏やかな心の状態。

喉が渇いていたらそれをうるおせる水が欲しいと思いますよね。コップ1杯なのか3杯なのか。それがないときは水がないない、とにかくたっぷり水をくれ、って思っています。

でももし水がその後、バケツ一杯喉に流し込まれたら?むしろもう水をとめてくれ!もう頼むから水を飲ませないで!ってなります。

つまり、水が欲しいんじゃない。水がないのが嫌なのでもない。

ちょうどよく潤っている、水が欲しいと思わない状態が欲しいのです。水のことを忘れている状態です。

すべてが満たされると、すべてを忘れます。水という存在、空気という存在、お金も愛も光も。あってもなくても同じ状態です。

乾いて、水があったらどんなに幸せだろうと渇望し、それが叶う幸せ。あるかないかを体験して得られる幸せ。

それを魂は、私の核はずっとずっと楽しんでいる。

だから、着ぐるみの私としては、もうそれは十分味わったというものは返してしまうのです。この渇きも水を飲んだ快感も、あなたのものです。あなたの体験です。あなたに返しますって。

すると、水のことを考えなくてよい状況が現実の出来事として起こる。

このからくり、最初は頭だけの理解、次に心で感じるようになり、やっと最近、外と内が一致する体感としてわかってきました。

なにも失うものはないから、自分ではどうしようもできないことが起きたら、それは源に返せばいいのです。どうせ自分でなんとかしようとしたってできないのだから。

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