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人生は問題解決ゲーム

わたしたちがお金を払うのは、すべて問題解決のためといっていい。

食べ物とか家賃とか光熱費とかも、空腹という問題解決だし住む場所を確保するという問題解決。

サービスだってそうで、医療も教育も娯楽も、もっとよくなるとか暇をつぶすとかストレス解消とか、けっきょくどれも問題解決。

つまり生きるということは問題解決し続けるということ。

狩りや耕作で食べものを自分で獲得しなければならない時代は、今のわたしたちが当たり前にお金をつかって解決している他の問題は存在しなかった。たとえば空を飛んで早く移動しないといけない問題とか、ブログを毎日書かないといけない問題とか、ChatGPTの勉強をしなければいけない問題とか。

なにかひとつ問題が解決されると、必ず人間は次の問題解決をしようとする。

スーパーで食べ物が買えるようになったなら、耕作や狩りで使っていた時間で別の問題解決をする。

技術が発達しようがしまいが関係ない。時間ができればできた分だけ解決する問題も増える。

もし問題解決をいっさいしないとどうなるんだろう。

ま、死んでしまうかな。空腹とか病とかそういう問題をただ放置すればしぬしかない。

問題解決をしなくていい人生だとどうだろう?

それってつまりなにも起こらないってこと。なにも必要としない。肉体もないってことになる。

つまり、わたしたちは問題を解決し続けるゲームをしに生まれたってこと。

問題を避けたい、解決したい、早く自由になりたい。だから目の前の問題を解決し続ける。ずっとずっと。自由は永遠に来ない。だって、問題がないなんて耐えられないから。それこそが人生だから。

ただ、ひょっとすると、これは解決しなくてもいいかも、とスルーすることはできる。本当にこれを解決する必要はあるだろうか。本当にこれは問題だろうかって自問して、これは問題じゃない、ただの出来事だ、って。あるいは自分にはどうしても解決できない問題だから、解決しようとするのをやめちゃおうって。そう選択することはできる。

そして問題解決しなくていい時間や、問題解決できたことで生まれる安心や自由や豊かさを味わう。

ほんとうはその時間を味わいたくて問題解決しているのに、味わうことをせずにずっと問題解決しちゃっている。生きていると実感するために。

問題解決している間は生きていようと思うので、問題解決に私たちを駆り立てるために不安や怖れが発動し、問題解決ゲームに夢中になる。これが自我の作戦だ。自我はゲームの盤上のコマのようなもの。私たちがゲームをやめたらコマは存在意義を失う。だから不安や怖れを使ってゲームに没頭させる。

だからこのからくりに気づいて問題解決ゲームから抜けると、問題解決して得ようとしていた望みがかなう。問題解決して得ようとしているものは、実は問題解決ゲームをやめれば手に入る。

でもねえ、問題放置って怖いじゃないですか。目の前に巨大な岩が転がってくるのにそれは問題じゃない、って思えっていわれるみたいで。だから抜けるのはすこーしずつ。これはスルーしても大丈夫かな、っていう問題からためしにスルーしてみる。

問題解決のからくりに気づき、問題解決をしなくても大丈夫なんだと心から思えることが覚醒なのかもしれない。





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