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心が疲れちゃってる人は「きちんと」生きすぎ

生きるのに疲れてしまっている人って、今まできちんと生きようとしてきた人なんじゃないかなと思う。

きちんとの意味は人それぞれで、学校の成績が優秀であることかもしれない、社会のルールを守ることかもしれない、礼儀正しくあることかもしれない、人を傷つけないことかもしれない、でしゃばらないことかもしれない、くだらないことをしないことかもしれない。

むかし30年前ぐらいに出会った4~5歳の2人の子のおかあさんが、子どもたちにはアニメを見せないといっていた。とくにギャグ系のアニメ。くだらないからと。この人にとって、そういうアニメを見ることはきちんとしていないことなのだろう。

個性的であることときちんとしていないことはイコールではないけれど、きちんといようとする人は自分の個性は出してはいけないと思っている人が多い。

話してみると個性をきちんとからはみだしてしまう欠点のような感覚でとらえている。個性を抑えるってことは、自分そのものを抑えていることで、自分を否定していること、殺していることだ。自分を殺せていると「きちんとできている」と安心する。はみだしていないと。でも、一方で殺された痛みは心の奥でどんどん積み上がり、腐臭を放ち、死にきれないほど強いものはどんどんと内側からわめき暴れ、閾値をこえたときに突然、きちんとしているのに幸せでない、きちんとしているのに人生が思い通りに進まない、きちんとしているのに苦しい、と感じていることに気づく。

こういう人はまず原因を、きちんとしていない身近な人に求める。だらしない夫、勉強しない子ども、おせっかいな隣人、仕事ができない同僚、などなど。

この人たちをどうしたらよくできるでしょうか?という質問をしてくる。

でも、この人たちをどうにかすることはできない。この人たちはこの人たちで、それぞれの課題に一所懸命に取り組んでいる最中でそうなっているから。

この人たちが原因なのではなく、「きちんとしなくてはいけない」が疲れを生んでいることに気づくのが、癒しの第一歩。

そのきちんとは、本当に必要なのか。そのきちんとは、本当に「きちんと」なのか、そのきちんとは何のためにあって何のためにあなたはそれを守っているのか。

たぶんそのきちんとは、子ども時代に養育してくれる人に見捨てられないために必要だと思ったルールで、自分が心からきちんとしたいと思っているわけでも、それがきちんとしていると思ったわけでもない。

くだらないアニメを見て、家族みんなでバカ笑いするような時間が欲しかったんじゃない?でもそれを、きちんとしなければ、が邪魔してない?

礼儀なんて横において、ざっくばらんにオープンに話ができる場がほしかったんじゃない?でも、きちんとしないといけないからオープンになれなくない?

きちんと社会のルールを守ることで、本当の安全や家族の幸せを二の次にしていない?

なぜきちんとしないといけないの?きちんとした結果、欲しいものはなに?

それは、あなたを殺さないと手に入らないの?

一番欲しいものを得るために、自分を殺す必要なんてない。個性豊かであなたがあなたとして存在しきることこそが「きちんと」生きることなんだから。

自分を殺して、相手にもそれを要求して、きちんと生きて幸せでしたか?喜びを感じますか?

もしそうならなぜ、周りの人を変えようとするのでしょう?きちんとしていない人をみて心がざわつくのはなぜでしょう?幸せなら、喜びを感じるなら、周りは関係ないでしょ?

その変えたいという相手は、ほんとはあなた自身。変えたいんじゃなくて、殺されかけている自分をそこから救ってあげること。きちんとしていない自分を取り戻すこと。すると、その自分が持っていたエネルギーが戻ってくる。きちんとしている自分の何倍、何十倍ものエネルギーが。

それには、きちんとしてきたあなたはまず、恐ろしく突拍子もないからってあきらめていたことをやってみるといい。

どうせそれは、本当に突拍子もなく生きてきた人達から見たら、かわいいものに見えるレベルだから。

面白いことに、きちんとからはみ出してみると、周りの人間関係がまず、願っていたように変わる。パートナーが急にやる気を出したり、子どもと自然に会話ができたり、同僚が親切になったり。

ちいさなことからはみだしてみるといいよ。


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