女子が賢くあるということ

賢くあるということ①

女にとって、賢いことはいいことなのだろうか。
女は、どのようにあれば、幸せになれるのだろうか。
そんなことを考えるようになったのはいつからだろう。

昔は女の子でよかったと思うことの方が多かった気がする。
ピンクのフリフリも、白のもこもこ、黒のキラキラ、全部好きだった。ピアノもバレエもやっててよかった、と思ったし、髪を伸ばしておさげにできるのは自分たちの特権だと思っていた。勉強をがんばること、スポーツをがんばること、もちろん当たり前だった。可愛くなる努力と、賢くなる努力は両立できた。

だけど、男の子たちより先に背が伸びて、生理で体育のプールの授業を休むようになって、足が遅くなって、胸が膨らんで、いつしか通学電車の中で男の人から脚を見られていると感じるようになって、「少女」から「女」になったわたしは、漠然とした恐怖感、「男に勝てない」という劣等感を持つようになった。
どうしてだろう。力で勝てなくなたからだったのだろうか。

同時に、中学校までは1:1だった学校の男女比は、地方公立の進学校に行くと6:4になり、超難関と言われる国立大学では8:2になった。何をするにも「女子は」という肩書きがついて回るようにもなった。大学のテニサーでは、なぜか男子が絶対的な覇権を持ってたし、学内の女子よりも近くの女子大の華やかな女の子たちがちやほやされる。必死で華やかになるようにメイクやファッションを研究しても、「可愛げがない」と言われたりもした。(もちろん可愛くなれない素材にも問題はあったと思う)

そして気づけば、周りもわたしも、「バリキャリと結婚出産」という選択意識を持ちながらシューカツを始めたりしている。「もてない高学歴バリキャリ女子とおバカなニャンニャンOL」なんて構図がまるで必然のように描かれたりする。
女が賢いと、生意気。
そんな空気感を感じることも、少なくない。

幸せになれると思って、賢くなってきたはずなのに。
わたしが生きていく時代は、女性でも賢くないといけない時代だと、教わってきたはずなのに。
社会を目の前にすると、まだまだそれが完全に許容され、積極的に求められてはいないようなのだ。
時代の過渡期を生きるということはこういうことなのだろうか。この過渡期は、いつ終わるのだろう。

*****

きっと偏った見方だし、これが全てではない。
どんどん女子大生を積極的に雇用している企業もあるだろうし、腰掛けOLなんてこれからさらに流行らなくなっていく。そんな流れがあることも、肌で感じてはいる。もしかしたら、ジェンダーギャップなんて言葉が注目されるのも、ここ数年までのことなのかもしれない。

だけど、まさか、「賢い女子」がゆえに悩み日が来るなんて、思っていなかったのだ。価値が自らの中で転換し、衝突する、そんな経験をする日が来るとは、少女だったわたしは想像もしていなかったのだ。

「自称賢い女子」の苦悩を幾度かに分けて綴る。

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