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優等生が社会人に。20年前、肉食系企業で打ちのめされながらも気づけた一つのこと

2003年、私は社会人としてスタートをきった。

これは、(自分で言うのもなんだが)優等生でどちらかというと模範的に生きてきた私が、社会人になってから打ちのめされた話。それでも今は、なんとかやっている話。

新しい春にちょっと疲れている人の、ささやかなのヒントになりますように。


「最大公約数」を選択した、私の就職

小さい頃から、私はいわゆる優等生だった

「勉強しなさい」なんて言われたことはない、手がかからない子。生徒会長・部長・委員長も務めたし、学年代表として催しに送り込まれ、町議会や県議会の椅子に座ったこともある(国会の議席に座ったことがないのが心残り)。

そんな私のまま、大学は理工学部に進んだ。留年の危機こそあれど(うちの大学は1教科でも2年連続「不可」があると即留年)、何とか乗り切り、4年生になった。

卒論テーマは「セル生産方式における作業習熟過程に関する研究」。超真面目に取り組んだ結果、学部生としては最厚級(こんな言葉あるのか?)の3.3センチ、重さ1.3キロの冊子が出来上がった。もはや鈍器にすらなるレベル。学会での発表機会にも恵まれ、学部内で表彰もされた。

目をかけてくれた教授には大学院進学をすすめられたが、食い気味に断った。「私、この勉強を活かして理系就職する気はないので。お金を払って院に行くなら、お金を稼いで社会勉強します」と。教授は苦笑いしながら立ち去った。

――断り文句こそ偉そうだが、心の中はモヤモヤだらけだった。断った裏側には「腹も括れていないのに理系専門職で未来を絞るのが怖い」自分がいたから。

そんなわけで、就活と言えばお決まりの「自己分析」もやって、私の腹の括りどころを探してみたりもした。けれど、得意なことも、やりたいことも、なりたいものも、何も見いだせなかった。

では何を基準に就職先を選んだかといえば、「未来の選択肢を最大限残せるのはどこか」という一点。ゆるい流れから激流に乗るのは難しいけれど、その逆ならできるはず。――いわば「未来の可能性の最大公約数を探す」のが、私の就職活動だった。

ため息をつかれてばかりの社会人1年目

結果的に、私が新卒で入社したのは、リクルートメディアコミュニケーションズ。「ゼクシィ」とか「フロムエー」などの情報誌に掲載する広告を制作するリクルートのグループ会社だ(現在はリクルートに統合)。私の配属はスクール情報誌「ケイコとマナブ」の事業部だった。

リクルートと言えば、「お前はどうしたいの?」が常套句。私は早々にこの洗礼を受けることになる。

1年目はリクルートに出向して営業研修。サボったつもりは、決してない。けれど「提案?戦略?何それ、おいしいの?」というのが本音。熱い思いも湧かず、頭をひねる方向すらわからない。

唯一積極的に動いたのは、クライアントの言い値を踏まえての値下げ。上司に交渉を持ち掛けると「……お前なぁ、安くすりゃ誰だって売れんだよ」と言い放たれた(そりゃそうだ)。

入社3カ月ほどたったころ、ようやく大きめの受注をあげた。周りの同期に比べて遅めのタイミング。思わずホッとした私は、勝手に肩の荷を下ろしてしまった。

広告制作担当者との打ち合わせでは、「あとはよろしく」くらいに思っていた私の姿勢が滲み出たのだろう。2つ年上の先輩ディレクターは見るからに苛立ち始めた。

「クライアントの強みは何?やじは一体なにがしたいの?……仕事がやりにくくて仕方ない」と大きなため息とともに席を立たれた(そりゃそうだ←2回目)。

忖度のない真正面からの指摘。悔しくて、情けなくて、うつむいたまま椅子から立ちあがれなかった。混乱する頭で、反省しながら考えた。「新入社員です。何もわからないから教えてください」は通用しないんだ。わからないなりに、それでも自分がどう考えるか、どうしたいのかをまずは手渡す。それがこれからの基本だ。

――社会人として生きるための超重要事項に気づけた瞬間だったと思う。けれど、模範解答ど真ん中を大手を振って歩いてきたような私の人生だ。「あっているか分からない答えを自ら差し出す」だなんて恐ろしくて仕方なかった。到底できる気がしなかった。

やりたいことも、なりたいものもない。さらにはどうやら、模範解答なんてものもないらしい。そんな状況で「お前はどうしたいの?」と問われ続ける毎日は、ある意味で期待通りの、でも想像を遥かに上回る激流だった。

あぁ、これからは、学生時代の成績も、卒業したときにもらった賞状も、何の役にも立たないんだ。

変われる予感。ところが。

イケてない新人時代に反省こそあれど、人は急には変われない。社会人2年目も、私は相変わらずだった。営業研修を終え、広告制作ディレクターに配属されてからは、とにかく息を潜めて過ごすことに必死。

「成長とかどうでもいいから、とにかく大きな仕事が来ませんように」「自分一人でそっと完結できる仕事だけがまわってきますように」と願っていた。その通りに月末が巡ってくると、心底ほっとした。

一方で、このまま未来永劫やり過ごせるはずがないことも、もちろんわかっていた。当時は就職氷河期。どの企業も採用人数を絞り込んでいた。私たち15名は「経営幹部候補」として採用された、貴重な人材だったのだから(多分)。

3年目になると、いよいよ本気で「マズい」と思い始めた。隠れ続けるのはさすがに無理だ。不意にくるかもしれないボールが怖いなら、先手必勝。自分から取りに行ってしまえばいい。

そんな考えに至った私は、当時のリーダーに直接頼み込んで、彼が担当する大きめな案件のプランニングチームに入れてもらった。こんな行動、私にとっては大革命だ。仕事の進め方、そこで交わされる会話を見せてもらううちに、恐怖や不安が少しずつ凪いでいった。ちょっとワクワクし始めた。

何も知らない営業部の大先輩にさえ「やじ、なんだか変わったな。最近いい顔してる」と言われるほどだった。

ところが数カ月後、私に告げられたのは、人事部への異動だった。「『お前はどうしたいの?』に答えられる日がもうすぐくるかもしれない」という予感を抱いた矢先だった。上司の前でしゃくりあげるほどに泣いた。変わり始めるのが遅かった。またゼロからやり直しだ。

最大公約数どころか、たった一つの約数すら見つからない。

なぜ「私」が。なぜ「人事」なのか。その理由を告げられることはなかった。

けれど、少し冷静になってから自分を顧みると、「現場より人事の方が妥当だ」と正直納得もしていた。いわゆるクリエイティブ職業よりもスタッフ職の方が、私の優等生資質の活かしようがあるだろう、と思えた(もちろん、どんな仕事にもクリエイティブ要素はあるのだが)。

ところが、経営スタッフもまた、しんどかった。あとになってようやく気づいたのだが、私は社会に影響を与えるような大きなテーマよりも、すぐ隣にいる人を喜ばせることの方がうれしい人間なのだ。

自分に会社を憑依させて、「会社のあり方」とか「社会への提供価値」とか大きな主語で語るのは、私にとって全く手応えのない行為だった。

そうそう。毎年巡ってくる新卒採用の面接も、かなりキツかった。1人1時間の個人面接。それを9時から20時までぶっ通しで行う週5日×数カ月。最後に「何か質問は?」と投げかければ、必ず聞かれるのが「矢島さんの目標を聞かせてください」。

あぁ、君も「お前は何がしたいの?」って聞くんだね。満足に答えられない私が、学生に合否をつける。こんな仕事する資格、私にない

毎日10人の面接記録を書き終えて、よれよれとタクシーに乗り込む深夜2時。東京の真ん中もさすがにすっかり静かで、真っ暗な夜空にはろうそくのように東京タワーがぽっかり浮かぶ。

そちらに目をやるフリをしながら、運転手さんに気づかれないようにこっそり泣くのが、毎晩の日課だった。あぁ、シャワーを浴びて数時間眠ったら、またあの質問に立ち向かわなくちゃ。

「最大公約数」を選択して、未来の選択肢を最大限残したはずなのに。制作でも人事でも、私のこの先の可能性は、一つも見当たらない。

――私はどうしてここにいるんだろう。

後ろを振り返って見えた景色

異動して数年経ったころだろうか。私は、26歳とか27歳とかだった思う。やりたいことも、なりたい姿もハッキリしないとはいえ、それなりのお給料をいただく身。

過去の教訓と経験を活かすべく、その時々の暫定解を自分なりに見出し、何とか日々の業務を形にしていた。「お前はどうしたいの?」には、口先でなら答えられるほどには、処世術を身につけていた(やっぱりそこに情熱やビジョンはなかったけれど)。

ある日の業務時間中のことだ。すぐそこに座る社長が私を呼び出した。

社長と日常的に世間話をするフランクな職場だったから、特に身構えもせずほいほいと社長のデスクの脇の個室に入った。隅田川と築地市場を見下ろせる、ガラス張りの部屋。よく晴れた日のお昼過ぎ。私は、社長の正面に座った。

唐突に始まったのは、どうやら面談だった。

なんとなく若手の話が聞きたかったのか。それとも何か目的があったのかはわからない。何を話したのか、もう記憶は曖昧だ。ただ、ハッキリ頭に焼き付いている会話がある。

「本当は私、この会社にいるべき人間ではないと思っています。みなさんとは根っこが違う。『お前はどうしたい?』にはいい加減慣れたけれど、目標を定めることも、自分で突き進むこともしてこなかったし、これからもできない気がする。肩身が狭いし苦しいけれど、場所を変える決断もできません」

すると社長はこう言った。

山の頂上に立てた旗を力強く目指す人がいる。ここは確かに、そういう人が多い。けれど、わからないながらも歩みを進めて、その後ろに道ができる人間もいる。その二つに、優劣はないよ。

ポエムのようで恥ずかしいのだが……その時確かに、私の背後に伸びるとてもきれいな道が見えた。緑のつやつやした草がみっしり生い茂った野原。空は青い。春の始まりのような、思わず目を閉じたくなるような柔らかい風が吹いていて、青々とした草は気持ちよさそうに波打っていた。

その野原の真ん中、遥か向こう側から、右に左にぐにゃぐにゃ曲がった道が、振り返る私の足元まで確かに続いていた。点々と、小さな旗が立っていた。そんな風景があったことに、初めて気づいた。

――私、頑張ってやってきた。後ろに旗を立てながら、ここまで来たんだ。

でも、でも。いつもやるべきことやきっかけを誰かに運んできてもらっている。お膳立てしてもらって、行き当たりばったりで、自分の意思がないような劣等感が拭えない

そう言う私に、社長は問うた。

――お前は、人に左右されて自分の意思や意見を変えてるか?

多分、左右はされていない。期待に応えて頑張ることはあっても、やりたくないことには抗う。自分の意見には責任を持ちたいから、「本当に自分がそう思っているか」と自問もしている。

だったら大丈夫。影響を受けることとと左右されることは違うんだから。人には影響を受けていい。左右されないなら問題ない。

社会人になって数年経つその時まで、自分の旗を高く高く掲げないといけないと思っていた。できない私は落ちこぼれだと思っていた。

ここでも「この会社のあるべき姿」という模範解答を追い求めていた私がいたことに、初めて気づいた。あの社長のひとことがなかったら、私は結局溺れていただろう。

振り返って初めて気づいた後ろ側の道の存在と、私なりの道の作り方を肯定してもらったことに、心底救われた。激流からひととき、この身を川岸に引き上げてもらった。

最大公約数の後日談

退職して13年。「あの環境が私にピッタリだったか?」と問われれば、胸を張って「Yes」とはいまだに答えられない。

けれど、「あそこを選んだことが正解だったか?」と問われれば、間違いなく答えは「Yes」だ。

あの時、上司や先輩にキレてもらえなかったら。毎日とことん「お前はどうしたいの?」を突き付けられなかったら。私は一生、模範解答ロードを爆走していただろう。そして今のライターなんて道を選び取ることはできなかったに違いない。

あの会社の激流は、私から「模範解答」を洗い流すためのものだった。在職した8年をかけて、私は「正解」ではなく「自分なりの答え」の見つけ方を刻み込まれたのだと思う。

ちなみに。ライターになったのも、未来に旗を掲げたわけではない。周りの人々が運んできてくれた扉を選び取って、導かれた道だ。

そこに劣等感はもうない。人との出会いを自分への良き影響につなげること。そしてその度に、足元にしっかり旗を立てられること。それこそがきっと私の才能であり、私らしいやり方だと思えるから。


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