礼儀正しくても伝わらない時がある

言葉遣いに気をつける事は、もちろんとても大事な事です。礼儀正しくする事も勿論です。

わたしも両親から、特に母からは礼儀正しくするようにと厳しく幼少期から教育されてきました。

だから、昔はそれこそがすごく正しい事と思い込んでいた。口が悪いとか非常識な態度とかはとんでもない。人から悪く見える事や、悪く聞こえる事は言わないのが正しいと…

そして途中まではずっとそれを信じてきました。

でも、残念な事ですね。

いくらこちらが、相手を尊重し気分を害さないように良い対話を心掛けようとしても相手が悪い考えを持っている場合は全く良い事はありません。

礼儀ばかり正しくしても伝わらない事があります。

相手が怒ってようやく聞く耳を持つ。
それまでは、全く相手の意思は無視で押し付け偉そうになる人や自分を優位に立たせるためだけに人を利用する心のない人もいます。

そういう悪い事をしている人に礼儀正しくそのような言葉遣いで接しても、無意味でどんどん自分に悪さをしてくるだけなんです。

私は日本にいる時に、そんな生易しい環境ばかりにいなかったのでそこら辺の折り合いにとても苦労してきました。

息をするように騙したり利用する為に、大人しそうな人を利用してやろうという人はいます。

私は親の教育から言葉遣いにも気をつけるように言われてきたから余程のことがなければ口が悪い言い方は出来なかった時代を長く過ごしてきました。

どんなに酷い状況でも、乱さないように空気を呼んで努力してきました。

すると悪い人間はどんどんつけ上がり、やりたい放題になる。私は自分がある人間なのでそれでは我慢できずにいつもブチギレて怒って関係が終わるということを繰り返してきたんです。

真に悪い事をし、自分に危害を加えるような人、もしくは悪を悪と気付かずにやっている頭の悪い人はそもそも当たり障りのない綺麗な言葉を言っても全く響かないし、そもそも聞いていない人さえいます。

人や伝えたい事によっては言葉遣いを変えなくては、心にさえ残らないんです。

それだけではない。礼儀正しい言葉ばかりが正解ではない。

それは私は言語の本質と思っています。

怒っていたり、ムカついていたり心かき乱されているのにそれに反し綺麗な言葉を使うのは意識的だから無意識でほとんど機能している脳の働きにも反している不自然さがある。

嘘をつきながら言葉を発する事に、なんの意味があるのだろうか。私はそんな飾り事には意味がないと思っています。

表面的によく見えるように言葉を繕う。

今だから言えますが、言葉と反し自分の身を守る為に、陰湿な行動で悪さをしてきた人に直接言わずに仕返しした事もあります。そして、おそらくは意識的に傷付けて仕返ししようとした。

それでないと、自分の精神や身体がおかしくなってしまうそういう環境も時としてあるからです。

でも今考えたら、それよりも相手に最初から伝える努力をし自分が嫌に思っている事を感情的に定期的にぶつければ良かったとも思いました。

礼儀正しい言葉遣いでは悲しいかな伝わらない時もあるんです。

私はオーストラリアに滞在しているときに、英語のネーティブスピーカー達が自分の気持ちに向き合って正直に嬉しい時は嬉しさを表現し、悲しい時は悲しさを表現し、そして怒っている時は感情を剥き出しにして罵倒したり、時には下品とも取られかねない言葉を使って叱責するのを目にしてきました。

日本に比べてそういう人はすごく多いです。
表裏が日本人に比べない人が多い。

日本では、これは下品で使ってはいけない言葉とか聞いていたような単語でも、理不尽な目に遭えば普段穏やかな人でさえ豹変して使う場合もある。そういう場面もよく目撃しました。そして怒っているという事を大きな声で、はっきりと態度として示す。

そこには、攻撃的な単語も含まれます。

その一方で日本人は礼儀ばかり気にしているから、悪い事をされていても怒っていないと思われ、図に乗ってカモにされている場面をよく見てきました。

現に私もそのステレオタイプに勝手に偏見から区別されていて、十分と失礼な態度で接する人もいました。

オーストラリアの人は、良い意味で日本人よりとても単純な人も多く、大人しい言葉遣いの人は現に大人しい。あまり発言しない人は消極的という場合がものすごく多く、だからこそこう思われても仕方ないとも言えます。

彼等は別に意識的ではない可能性もある。

私の意識を変えしっかり伝えなければ、そう心に決めました。

悪い事をしようとしてくる、失礼な事ばかりしてくる、舐めきっていて利用できると思っている。

そういう人に会っていちいちイライラしたり怒ったりする時間はなんて無意味なのだろうか。

自分がどうすればそういう人にやられないようにできるかな?

と考えました。

その時に、自分が公立の荒れた中学に通っていた時の事を思い出したんです。

私は友達が殴られそうになっていたので止めたら目をつけられて、授業中に不良達に呼び出されてリンチされそうになった思い出があります。

当時はとても酷かったです。ガラスがしょっちゅう割れるので先生達とガラス業者が顔見知りになるとかそんな感じでした。

彼等は常にシンナーを吸っていてサバイバルナイフを持っていた。上手く話さなくて舐められては、何されるか分からない。

そう思った当時の私は、咄嗟に大きな言葉と態度で彼等を煽りもし私を傷付けた場合はどんな悪い事があるか、非常に汚い言葉も使って説明しました。

リーダーは私が豹変したのでビックリしてリンチはせずに代わりに机を倒し椅子を蹴り上げただけでその場は終わり解散となりました。

その後からは、何故か彼等とも仲良く出来る様になったんです。楽しく話した事もあります…信じられないけれど…

そんな経験から、綺麗な言葉遣いも時と場合によるとは本能的には察知していたのかもしれません。

そんな経験をふと思い出して、いや待てよ。これは戦いだ。悪い事する人がいたら汚い言葉で言って罵倒するまでしないとさっぱり理解しない人もいるから、使いようだなそう思いました。

上品な人でさえ怒るとそうなるのは真理だと気付いたのを覚えています。

それ以降、私は嫌な事があればハッキリと理由付きでNo と言い、それでも無視して継続する人には、FuckだのShit だのStupidだの idiot など遠慮なく使うようになりました。

日本で過去に表向きだけは態度や言葉遣いを良くして、陰湿な方法で自分の身を守るために嫌な事をしてきた自分はここで消してしまおう。そう決めたんです。

それからのオーストラリアでの私は解き放たれ楽になりました。

言葉に出してなんとか自分の感情を説明する。それで通じ合えるなと何度も実感した。

場面はちょっと違うけれど、中学時代の事も思い出しました。

なるべく、相手に気分よく聞こえる綺麗な言葉を選ぶに越したことはないんだけれど、そんな事は綺麗事。どうしようもない事もあります。

日本人はとても海外ではカモにされやすい。

他人の反応を気にして礼儀正しい単語や表現を使う事ばかりがいつも正解じゃありません。

相手の態度や行動にとやかく言っても相手を変える事はすごく難しい。自分の接し方を変える事の方が簡単なはずです。


言葉遣いも状況によって変える方が伝わりやすい。感情は説明しなければ表現しなければ伝わらないのは、当たり前なのではとも思います。

何が正しいかなんて状況で変動するんですよ

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