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日報 vo.24 2018.12.19(wed)/感情のゴミ箱としての自己、呪いの自覚について

写真は先日の滞在先の地面

作業のため、某所へ。
とにかく余計な情報量が多くて、ここを去る日も近いのかも知れない。

また、友人とお茶をする。
友人の声がどんどん大きくなり、30分の予定が3時間に。

みんな、生きることに必死だ、と今日は思うことにする。

私は私であり、「私たち」には到底なり得ない。

やはり、ここでも孤独であらねばならない、と実感させられた。

それは私にだけに、べったりと擦りつけられて泥まみれにされたまま「私たち」であると定義され、そこから彼らの手を振りほどき、走り出し、一人で崖の上から海に飛び込み、ゆっくりと浮き上がった時のような、心地の良い感覚であった。

私は、ただ学習をして仕事を探したい。

職業ではないのに、ただゴミ箱のように人の愚痴を聞く役をいつも引き受けてしまうのは、”「優しさ」ではなく「呪い」である”という文章を目にした。

本当にその通りだ。

その呪いを自覚するしか、生き延びるすべがないのだ。
何度も、何度も、繰り返し自覚して、その呪いを解かなければならない。

生き延びた小さな子どもの頃の私と、守らなければいけない者のために残りの人生を費やす義務がある。

ただ、それだけ。



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