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27歳11ヶ月現在の生き様

目次

  • はじめに

  • 出生前〜幼少期

  • 習い事

  • 小学時代〜中学時代

  • 高校時代

  • 専門時代

  • 社会人

  • 健康志向で元気が取り柄の母が倒れる

  • 母の病気についてと考えられる大きな要因

  • 半生の中で最も大きな決断

    • これからの二郷海香としての在り方




  • はじめに

わたしは今まで生きてきて死ぬ気で物事について取り組んだことがない。

「なんとなく」「まあいいや」「無理はしたくない」など

何かと理由づけをして頭の中で言い訳をしてきた。

自身の人生についての大きな決断の部分でも

「こっちはしたくないからあっちでいいや」

「もう疲れたし、めんどくさいから」と

消去法を使ったりいかに楽に生きれるか、という逃げの手段を駆使し

何事においても温く 流れるままに生きてきた。


  • 出生前〜幼少期

「海香はお腹にいた時から何度も何度もお腹を蹴ってきてすごく活発だったから、

  お父さんもお母さんも看護師さんも、みんな男の子が産まれてくると思ってたんだよ」

母が何かある度に言ってくる言葉。

何故だかわからないけれど、そう言ってもらえるたびに誇らしげに照れていた。


物心つかないうちから

知人にも他人にも、誰彼構わずニコニコ愛想を振りまくったり

言葉を喋れないうちから突然話しかけたりして

いろんな人に

「誘拐されないように気をつけてね」

とよく言われていた(らしい)。

生まれた時から人好きだったことがわかる。

そんな ‘’ 活発で人たらしな女の子 ” として人生のスタートを切った。

ありのままの私と大好きな姉
  • 習い事

2歳から中学3年生まで毎週英会話に通った。

英語を習いに行っていたというよりは先生や友人に会うために行っていた。

子どもなりに積極的に発言していたことと

発音がネイティブだと褒められていたことが嬉しく続けられていた。

宿題やテキストはせず、全然怒らない優しい先生に甘えまくっていたことで

英語力はぎりぎり会話ができないレベルに中途半端に身についた。


5歳からはエアロビクスとクラシックバレエを習い始めたが、

途中で先生が変わり、モダンダンスに転向した。

いろんな歳、いろんな地域の友達が習っていたので

普段交流できないような友だちがたくさんできた。

中でも同い年で身長や体の柔らかさが近く、違う学校にも関わらず特に気の合う1人の存在が大きかった。

その子とは小学生にしては家は遠い方だったが、

休みの日に予定を合わせて母に送り迎えをお願いして一緒によく一緒に遊んだ。

彼女は負けん気が強く、しっかりしていて芯があり、尊敬できる面もたくさんあったため

本当に大好きで誇らしく、自慢の親友だった。

そのおかげでわたしももっと頑張ろうと思えたし、

バレエを楽しく続けられた。


小学校に入る直前から小学校高学年まではタッチラグビー。

はじめは毎週日曜日、朝から両親に連れられ隣町へと出向き

おおきな広場で当時の自分には大きなラグビーボールを持ち

たくさんの大人たちに混じって元気に走り回っていた。

(が、途中から飽きてお花摘みに専念する。)


そして小学校中学年くらいからは父がタッチラグビークラブを開き

毎週末 朝から昼まで友人と共に汗を流した。

それがとても楽しく、とても気持ちが良かった。

年に何回か開かれる小さな大会で、年齢問わず

沢山のライバルや仲間ができたりと数えきれないほどの出会いがあった。


そしてもう一つ、習い事ではないが

サッカー好きの両親がベガルタ仙台の年間チケットを買って

ホームゲームがある時 毎週のように応援に行った。

(が、こちらも序盤で飽き試合そっちのけで「おいでよどうぶつの森」のすれ違い通信に専念。。)

いつも指定席だったため、毎回顔を合わせる周りの席の人たちと仲良くなった。


今こうして振り返ってみると、

様々な習い事や両親の色々なアクションのおかげで

老若男女年齢問わずこれといった括りもなく

数えきれないほどの人と知り合えていたなと思う。


そう言った部分でも人たらしが加速したのかもしれない。


周りの人があまりしないような習い事や

幼少期からいろんな経験をさせてくれた両親。

この時はよく 家族でキャンプやドライブに行ったりもして

仲良し家族で有名で、大好きで、家族全員が誇りで本当に自慢だった。


何も知らない方が幸せだったのかなと思うこともある。


  • 小学校〜中学校時代


小学校入学直後は

高学年の先輩たちが地区ごとに迎えにきてくれて手を繋いで登校した。

優しい先輩たちがキラキラしてかっこよくみえたのを覚えている。

そのとき家が近くでクラスが一緒だった女の子と仲良くなり、

毎朝一緒に登校することになる。


そうして朝の時間はその子と一緒に過ごしたが、

それ以外はそれほど楽しくは無かった。


今まで公園で会えば遊ぶくらいには仲の良かった幼なじみに

何故だか避けられるようになり、

中学年のときに休み時間に一輪車や竹馬をしてはしゃいでいた仲の良かった子は

その幼なじみに感化され、次第にわたしを避けるようになった。

人一倍人が好きなわたしにとって

たくさんの人がいる中で毎日を1人で過ごすということはとてもやるせなかった。

そしてクラスの端っこで大人しく過ごしているグループに入れてもらい

卒業まで静かに過ごした。


そして中学生。

この3年間は正直、

一番と言っても過言ではないくらいには良い思い出がない。

小学生の延長で周りには友人がおらず

他の学校から来た人もいたが相手の顔色を伺い嫌われないように振る舞い過ごした。

グループでも気の強い子が主導権を握り、

その子の気分で振り回されかなりの頻度でギクシャクした。


  • 高校時代

前述したように、高校1年の時は今まで除け者にされていた経験から

あまり目立ちすぎないようにしよう

と心に決め、仲の良い友達と波風立てないように穏やかに過ごした。

2年生になると女子が7割のクラスになり、

いかにも女子の集まりといったようなくっきりとしたグループができた。

そして自分が身を置いていたグループの内の1人の気分で振り回されることとなる。


そう、中学生の頃と同じ状況だ。

居心地が悪いとはずっと思っていたし、抜け出したかったのも事実。

だが嫌われるのが怖く抜け出せなかった。

そしてクラスが変わった。


クラスだけでなく、人生が変わるきっかけになったのはここだったか

と、気づいたのは最近のこと。


今までで最も楽しい1年だった。


その理由はその時の環境や付き合う友だちの変化。


有難いことに本来の自分全開でいるという在り方を

肯定しながらさらに引き出してくれる仲間に囲まれていたのだ。


この時仲良くなり、いまでもご飯に行く友人はたくさんいる。

そしてこれからもずっと大事にしていきたい。

不意にわたしがウケ狙いでしたことを拾って笑ってくれる子が多かった。

自分をきっかけに笑いが起き、

友人たちの笑顔がみれるのが本当に幸せだった。

心から楽しむみんなの笑顔

目立ちたくて授業中に手を挙げて発言することも増えたし、どうしたらみんなが笑ってくれるかな、とか

いつも笑ってくれないあの人を笑わせるためには何が有効かな、

といったように、無意識に全員で楽しむための手段を気づけば自分なりに色々考えていた。

そしてそれが報われて狙い通りにウケたり、

クラス全員が同じことで笑っているという事実が心から嬉しかったのを覚えている。

いまも変わらず仲のいい友達
みんなの中心にいるのが最高に幸せだった

そして進路の決断のとき。

これからの人生を左右するかなり重要な事柄であるのにも関わらず、全く身が入らなかった。

テスト勉強したくない→大学は無し

もう少し学生でいたいので就職はしたくない

ということは専門学校→やりたいことはないけど、その時お菓子作りが趣味だったのでとりあえずパティシエ方面に行くか…、

いやでも飽き性だし飽きたら困るから全部やるクラスに行こう。

調理科の専門学校
(パン、製菓、フレンチ、イタリアン、日本料理など全てを学べる座学より実習多めのコース)


そんな消去法で進路が決まった。

因みにその学校に行こうと決めたのも、

全国の調理学校でトップ争いをするほど有名な学校だったから、という単なる理由。


そして実際に色んな調理をしてみて

いちばん楽しかったという理由で日本料理の道へ進んだ。




  • 社会人



・一店舗目


銀座の名店。

色々見たけどどこもピンとこないし就活疲れたし、もう次の店に決めよう。

正直なところここでも得意の妥協によりこの会社に入ると決めた。


料理界は上下関係が特に厳しく、朝から晩まで働き続けるために体力と根性が必要なことだけはわかっていたので

とりあえず3年は続けるぞと自分なりに覚悟して働き始めた。

案の定、厳しい世界だった。

新卒の入社予定者は自分含め6人決まっていたが2人は其々の理由で仕事が始まる前に入社を辞退、

1人は始まってから怒られまくり5日で突然姿を消し、あとの2人は3ヶ月で家庭の事情によりこの職場を去った。


当時、毎日朝7時過ぎに家を出て、遅い時は深夜2時に帰る生活。

週一休みで基本毎日休憩無し。

その店に社員は自分と上司1人しかおらず

朝の準備、段取り、洗濯、仕込み、営業、賄い作り、夜の段取り、夜の営業を全てこなすしかなかった。


それはもう、毎日朝から晩までバタバタだった。


昭和の板前の考えが根強かった上司が多く、パワハラやモラハラ、時にはセクハラもあった。


胸ぐらを掴まれ怒鳴られたし、不意に頭を叩かれることなんて毎日のようにあったし、

呼ばれて行くと突然頭から塩水をかけられたことだってあった。


でもたまに飲みに連れられることが楽しく報われる気がして

厳しい鞭があってもたまの飴により続けられた。


1年目から辞めたいとは思っていたが、このとき完全に他人軸だったわたしは

「わたしがいなくなったらこの店が危ない」と

無駄な使命感に駆られ、自分は辞められない状況下にあると思い続けた。


そうこうしているうちに4年が過ぎた。


最終的には他の従業員に乗っかって辞められたわけだが、

その一社目のお陰で根性と体力がしっかりと身についたし

二社目につなげてもらえたことでもこの4年間が無駄だったと思ったことは一度もない。

板前時代

・二店舗目

業者の繋がりで、同じ業界ではあるが

全く違う日本料理店へ。

入る前は料理を続けるか、

ディズニーのキャストをやるか、

スタバの店員になるかの3択で迷っていた。

でも人の紹介から気づけばトントン拍子で面接まで進んだため

この世界を引き続けることに決めた。

初めは客として行ったお店だった。

その時食べた料理や空間、そして大将の料理の仕立てやおもてなし等

全ての拘りやプライドが本当に高く、他のお店では感じられなかったその感動が1年以上忘れられず入社することに。


他にも数えきれないほどのお店はあるが、

日本料理を続けるとしてもこの職場以外の選択肢は一斎無かった。


そして入社から3年半経ってもこの店に対する思いは変わらず、

日本のどこを探してもうち以上のお店は無いと胸を張って言える。

ここでの一番の収穫は人間力。

初対面で「うちは暴力を絶対振るわない」と、真っ直ぐそう言われただけで涙が止まらなかった。


あぁ、私は今まで我慢していたんだ。本当は嫌だったんだ。と気づいた。


この業界で褒め言葉や謝罪の言葉、お礼なんてそんなこと上司から言われることはないと思っていた。

だがこの職場は違った。


言われるたびに涙が出たし、もっと褒められたい、力になりたい。

もっとお店に貢献したい。


そう常々思うことになり

そこから自分の人生の軸は今の職場に完全に切り替わった。



大将も女将も料理長も全員が仕事に対するプライドが高く、

お客様のお好みに合わせて組ごとに毎日献立を変える。


何日連続でいらしても全く違う献立と器で、

ただ1人のお客様のためだけに店中の室礼まで変えることすらある。


今まで助として他の店に勤めたり食べに行ったりして

その店の雰囲気を20店舗以上は見てきたつもりだったが、

長く愛されている料理屋ですらも

この店には到底及ばないだろうと思った。


従業員1人1人がしっかりと責任を持ちしっかり仕事をしている。

当たり前のことだがそれをするのは本当に素晴らしい。


見たことのない熱さだった。


楽しくみんなで喋りながら仕込みをしたこともよくあったが

もちろん毎日怒られていた。


でもそれにはちゃんとした理由があって、愛もあって、

トップを心から尊敬できるからこそどれだけ嫌なことがあっても

辞めたいと口にすることなくここまで頑張れた。



今の職場の姉妹店として軽井沢店がオープンした。


その時はオープンのために同僚や上司たちがバタバタしているのを

大変そうだな、と、他人ごとに見ていた。


だが、立ち上げメンバーとして加わっていた同僚の仲居は

軽井沢に身をおいて働くことに前向きではなかったため、

私も加わり不定期で入れ替わり出張をするということになった。


それから3週間くらいのスパンで2〜3ヶ月ほど交互の軽井沢出張を続けたが

2店舗を行ったり来たりしていると仲居2人の成長が中途半端になってしまうし、コスパが悪い、という理由から

私が軽井沢の従業員として住まいを移すことが話に上がった。


大将と女将と軽井沢店の店長と四者面談をした。

私の意思を尊重してくれるということでそのような場を設けてくれたことがまず嬉しかった。


当時は1人暮らしをやめて母の住むマンションに転がり込んで暮らしており彼氏もいなくて最も身軽だったということ、

軽井沢で紅一点でそこで頑張ればお客さまに覚えてもらいやすいしどの仲居よりも目立てるということ、

会社の新しく大きな挑戦として軽井沢店を作り上げていくという他では経験できないこと、

そして何よりここで承諾すれば大好きな上司3人を喜ばせることができる。

そんな理由から軽井沢で働くことを決めた。

同時に、母との2人暮らしに終止符を打つことになった。

2020年8月 仲居に転身


  • 母の病気

母には持病がある。

恐らく癲癇(てんかん)だと診断されているがそれも定かではないらしい。

恐いのが突然倒れてしまうというところ。

初めてその発作を起こした時はわたしだけが東京で働いていた。

父と姉は家におり、母が犬の散歩に出掛けていた。

突然倒れ、コンクリートに顎を打ちつけ血塗れで救急車に運ばれた。

痙攣を起こし、顎の骨を折って全治6ヶ月とのことだった。

「お母さんが倒れた」と姉から連絡があった時は固まった。

運動が好きで、いつも笑顔で、

家族を想い健康的で身体に良い料理を毎日振る舞ってくれていたあの母が、倒れるはずがないと。

何を聞いても信じられなかった。


  • 発作の大きな原因

初めて倒れてしまった当時は思い当たる節が無く、先天的なものかと思っていた。

だがこれも憶測になるがストレスが大きな原因とのことだった。

何故?

家族が知らないだけで職場で何かあった?

祖父が入院しているから?

そんなことを思っていた。

見当もつかなかった。


父の不倫だった。

それが発覚したのも、仙台に住んでいた頃。


11年前

ガスも電気も水道も使えなくなった中

家族全員で支え合い乗り越えた、東日本大地震の数ヶ月後の話だった。


そんな話、聞かされたことなんて一度も無かった。


11年もの間、勘付く術もないくらい綺麗に、母の中に押し込みきっちりと蓋をしていたのだ。


母の心を想うと

憤りと感謝と労いと悔しさと、たくさんの感情が入り混じり

なんとも言い表せない虚無感でいっぱいとなり思考は停止し頭が真っ白になった。

今でも感情が溢れ涙が出る。


倒れたのはその一度だけで無く、それから今日までで4回。

2年以内に3回、そしてつい先月、5年ぶりにその発作は起きた。

顎の骨を折るほどでは無かったが頭を少し切って流血したり、タンコブができたり。

打ちどころが悪ければいつどのタイミングで死に至っても可笑しくない。

姉と緊急会議を開いた。

兎に角、自分たちに出来ることは今すぐにでもする。

姉はドイツに住んでおり、すぐに対応できる環境ではないのでどれだけ小さなことでも毎日連絡する。


私は東京に行けるタイミングがあれば月1回以上は絶対に来ると決めた。

こちらに負担をかけまいと笑顔で何事もなかったように

独りで闘い頑張ってきてくれた分、いやそれ以上に私が母を守り抜き絶対に幸せにする。


  • 半生で最も大きな決断

板前から仲居に転身し、天職だと言いながら今だけを楽しみここまで続けてきた。

そうして目の前だけに集中して真っ直ぐ突っ走ってきたわたしにとってこの業界から離れると言う選択肢は無かった。

というより、ずっと目を背けてきた。

今までの10年間ずっと料理界に属し「続けることが正義」というなんとも無駄なレッテルを貼っていた。

そして料理界から離れていく仲間たちを無意識のうちに見下していた。

とても恥ずかしいことだ。

逆に、10年で気づけて良かった。

30代までずるずる引きずっていたら…

と思うとゾッとする。


そうしてたくさんのことを積み上げてきた料理界から離れて

「仲居としての二郷海香」ではなく

「二郷海香という人間として」

もっともっと成長したいと思うようになった。


1日1日を大事にコツコツ積み上げることを継続し、最期まで後悔のない人生を全うする。

そう強く決心し、これからの人生で必ず守り抜く自分との約束と定めた。


はじめに前述したとおり私は今まで一度も死ぬ気で挑戦したと言えることがない。


だからこそ、これからは絶対に後悔しないように

やりたいことや、やろうと思えばできることはすぐに行動に移し

そして全て本気で挑んでいく。


どれだけ自分の理想に近づけるか

どれだけ楽しい人生を作り上げていけるか

全ては自分の行動量次第だと分かった以上、やり切るしかない。

今までわたしのために身を精神を削って頑張ってきてくれた分、

母はわたしが守り、わたしが絶対に幸せにする。


そして自分のやりたいことも我慢せず少しでもやりたいと思ったら全て行動に移し

わたしの幸せを自分の手で掴む。


  • これからの二郷海香としての在り方


GOAL-Bに出会ってから今日までのたったの3ヶ月足らずで

人に褒められるくらいの行動力が身についてきた。

マインドが変わった。

他責思考から自責思考になった。

嫌なことがあっても一歩引いてHowを求められるようになった。

さらにポジティブになった。

生きるのが今まで以上に楽しくなった。

大好きなバラエティを1日中観続けることも、漫画読み漁ったりダラダラSNSを見ることも無くなった。

もっともっと挑戦して自信し今まで見たことのない本気の自分に会いたいと強く思えるようになった。


数えきれないほどの変化があり、人間として物凄い勢いで成長しているのが自分でもわかる。


全力で生きるのってこんなに楽しいんだと気づけたことが本当に大きい。


わたしは確実に今のわたしには想像できないくらい成長できる。


今日も明日も明後日も来週も

全力で自分を使い果たし


これが最高の生き方だと絶対に体現する。


そして少し前の自分のような自信できない女性たちの希望や鑑になれるよう、

全身全霊を尽くし毎日を生き抜くとここに誓います。


長文にお付き合いいただきありがとうございました。

※執筆は2023年12月20日

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