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海を夢見た蛙(かわず)ー3

「あらあらあら、まぁまぁまぁ! あなたが、タオファさんなのねぇ!?」
 日が傾き出した頃に帰宅した俺たちを出迎えた母の顔が、彼女の姿を捉えた途端に輝き出した。事情は、既に電話で説明済みである。
「ハイ、初めましテ。私、李桃華でス。突然、スミマセン」
「あらまぁ、日本語お上手ねぇ! さ、どうぞ入って入って!」
 息子の文通相手との対面が、余程嬉しいらしい。こんなに上機嫌な母を見るのは久方振りである。客人用の真新しいスリッパをいそいそと取り出して、母は笑顔のままリビングへ彼女を促した。
 滅多に使わない上等な陶器にジャスミンティーを淹れて、ソファーに座った彼女の前に置く。最後に母が腰を下ろしてから、俺たちは彼女の現状を説明した。
「それは大変だったわねぇ!! うちで良かったら、どうぞ泊まっていって!」
「え……でも、私、お金が、払えませんでス」
「そんなのいいのよぉ、うちの春夜と文通してくれてたってだけで十分有難いんだから!!」
 笑って話しながら手を払うという中年女性特有の謎めいた仕草をしながら、母は調子よく答えた。
「私は、夕夏と春夜の母親で、星(ほし)恵(え)っていうの。よろしくね、タオファさん!」
「ハイ、よろしくお願いしまス、ホシエサン。お世話になりますでス」
 ぺこり、と遠慮がちに頭を下げる。表情はまだ硬い。
「そうだ、今夜はタオファさんの歓迎パーティーにしましょ! ちょうどね、餃子の材料を買ってきたところなのよ!! ビールと梅酒もあるわよ!」
「ぎょーざ……?」
「チャオズ、だよ」
 また首を傾げていたので横から中国語の発音を伝えると、彼女はすぐに納得した。
「嬉しいでス、私、ぎょーざ大好き! ありがとうございまス、ホシエサン!!」
 この家に来てから、初めて彼女が笑顔になった。それを見て、ほっと胸を撫で下ろす俺。
「まだ夕飯まで時間あるわよね、お母さん。タオファちゃん、それまでに必要なもの買いに行きましょ。お金はなくても、アプリで買い物はできるもんね」
 確かにその通りだ。最近は観光客のために中国のキャッシュレス決済アプリ対応を始めた店舗を多く見かけるので、きっと近場のデパートやスーパー、コンビニでもできるだろう。便利な時代になったものだ。
「着るものは私ので良ければ貸してあげるから、歯ブラシとか下着とか、そういうものを買えばいいと思うの。春夜、アンタは残ってお母さんと餃子作ってて」
 じゃあ早速行きましょ、と言ってタオファさんの手を取る姉。彼女は不安げな表情で俺の方を見たが、大丈夫だから、と言い返して二人を見送った。
「可愛い子ねぇ、タオファさん! やるじゃない、春夜」
「だから、そういうんじゃないって言ってるだろ」
 揶揄う母をあしらうことにはもう慣れていて、反射的に決まり文句を返す。しかし、その直後にイベント会場での彼女の爆弾発言を思い出し、不覚にも頬を紅潮させてしまった。
「ほらぁ、やっぱりあんただって可愛いって思ってるんでしょ!」
「いや……とにかく、餃子作るならもう始めないと」
「そうね、始めましょ。それにしても、良かったわねぇ。お父さんがいなくて」
「ああ……」
 父――天川龍彦は、とにかく寡黙で気難しく、常に眉間に皺を寄せているような人物である。もし家にいたら間違いなく彼女に余計なストレスを与えていたことだろう。そんな父が上海に単身赴任中で、彼女はある意味ラッキーだった。かく言う俺も、そんな父が留守だからこそようやく同人誌を発行し、イベントに参加できたようなものだ。
 一時間半ほどで、二人は街から戻って来た。餃子パーティーの準備も整っていて、あとは焼くだけである。
「お帰り、タオファさん! ちゃんとお買い物できた?」
「ハイ、ダイジョブでス。ありがとうございましタ、ユウカサン」
「いいのよ、気にしないで! じゃ、荷物置きに行きましょ」
 そう言って、彼女たちは二階にある姉の部屋へ向かった。一階に下りてリビングに入ると、台所でフライパンに油を注ぎ、ガス台の火をつける俺のことを不思議そうな顔で見つめるタオファさん。
「シュンヤサン、何しているでスか?」
「何って……焼くんだよ。餃子を」
「ぎょーざを、焼きます、でスか!?」
 何故か驚く彼女を他所に、飛沫を飛ばし始めた油の池に餃子を置いて豪快な音を立たせる。
「あ、ア……哎(アイ)呀(ヤ)ーーーー!!」
 直後、断末魔の叫びに慄いた姉と母が、険しい表情で台所へ駆けつけた。
「大丈夫、タオファさん!?」
「ちょっと何、どうしたの!? 春夜、アンタ何か変なことしたんじゃないでしょーね!?」
「んなわけねぇだろ、そんな目で見るんじゃねぇよ!!」
「じゃあ何でまたタオファちゃんを泣かせてんのよ!?」
「知らねぇよ、俺はただ餃子を焼こうと……」
 そこで、俺はようやく気づいた。餃子を焼くのは日本人にとっては至極当然のことだが、中国では基本的に水餃子として食べるので、そもそも焼くという発想がないのだ。
「ぎょ、ぎょーざが……焼かれているでス……」
「ぎょ、餃子が焼かれています?」
 瞳を潤ませながら震える彼女の呟きの意味が理解できないらしく、訂正しつつオウム返しをする姉。彼女の背中を撫でながらあやす母も同じような表情を浮かべていたので、どうやら彼女がいきなりカルチャーショックを受けたことを悟ったのは俺だけらしい。
「あー……ごめん、タオファさん。日本人は、餃子を焼いて食べるんだよ」
「え、中国では焼かないの!?」
 姉と母の声が重なり、リビング中に響く。恐らく、さっきの叫び声も近所に聞こえていたに違いない。後で事情を説明しに行かなくては。
「ハイ……でも、ゴメンナサイ。私が悪いでス。せかく作てもらてるのに、私、失礼でありましタ」
「いや、いいよ、謝らなくて……」
 俺たちだって、テレビで見たような海外のキテレツ日本料理を食べさせられる時は、きっと同じようなリアクションをするだろう。要するに、そんなのはお互い様なのだ。
「ぎょーざを焼くこと、知りませんでしタから、驚くしましタ。でも、キット美味しい。ですから、焼いてくだサイ。シュンヤサン」
「お、おう……」
 やりづらいこと極まりないが、もうそうする他ない。無心になって、俺はひたすら餃子を焼き続けた。
 焼きたてのそれを大皿に盛り付け、恐る恐るテーブルに置く俺。変わり果てた姿の餃子を、黙って凝視する彼女。さながら、得体の知れない餌を前に警戒する野生動物のようだった。
「じゃ、じゃあ、食べましょうか!」
 母が言い出して、俺たち三人は揃っていただきます、と唱える。すると、彼女は急に硬かった表情を綻ばせて笑った。
「え、何、どうしたの?」
 俺が横から尋ねると、彼女は愉快そうに言った。
「日本の人タチ、ミンナ、いただきます、言いまス。アニメで見ましタ。面白いでス」
「そうねぇ。こういう習慣って、たぶん日本だけだもんねぇ」
「アニメと一緒、か。そりゃ面白いわ!」
 母と姉の顔も和らぎ、リビングの雰囲気が明るくなる。
「私も言いまス。いただきまス!」
 きちんと手を合わせて、彼女は高らかに唱えた。そして勢い良く餃子を取り、醤油をつけて頬張り、咀嚼する。
「……ど、どう? 美味しい?」
 母に倣って前のめりになり、瞬きも忘れて彼女の返答を待つ俺たち。
「ハイ、美味しいでス! 私、コレ、好きなりましタ!!」
「ホント!? 良かったぁ!!」
 三人揃って心底安堵し、背もたれに寄り掛かる。気を取り直して、俺たちも箸を進めた。
 一時はどうなることかと思ったが、そこまで心配することはないかもしれない。会話の弾む食卓を眺めながら、俺は一人、心の内でそう呟いた。


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