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小説「海を夢見た蛙(かわず)」ー4

「お帰りナサイ、シュンヤサン!」
「お、おう……ただいま」
 バイトから帰って来たら、エプロン姿の可愛い女の子が笑顔で出迎えてくれる――少し前までは想像すらしていなかった、まるでライトノベルや恋愛ゲームのような非現実的な光景に若干狼狽えつつ、ぎこちなく返事をして靴を脱ぐ。
 働き者の彼女は、うちに来てから毎日、積極的に家事を手伝ってくれた。買い出しは難しいが、掃除や洗濯、食器洗いなどはお手の物のようで、母はとても喜んでいる。
「シュンヤサン。朝ごはん作るしましタから、食べてくだサイ!」
「え……これ、タオファさんが作ったの!?」
 食卓に置かれたのは、いわゆる中華粥だった。湯気と共に優しい匂いが漂い、鼻腔を擽る。蓮華で一口目を掬い、吐息で冷ましてから口に入れると、柔らかい食感と鶏の出汁が染み渡り、俺の胃袋を満たし、疲れ切った心を癒していく。
「あノ……美味しいでスか? シュンヤサン」
 ずっと傍らで立っていた彼女が、俺の顔を伺いながら尋ねる。
「うん、美味い。すっげえ美味いよ、タオファさん」
「ホントでスか!? 嬉しいでス!!」
 俺は親指を立てただけなのに、彼女は頬を赤く染め、満面の笑みでガッツポーズを決めて喜んだ。大袈裟な反応にたじろいでいたその時、俺に向けられていた母と姉のいやらしい視線に気づく。
「あらやだ、新婚さんみたい! そのままお嫁に来てもらったら?」
 ド直球なワードを聞いた途端に咽てしまい、しばらく咳き込んでから言い返す。
「な、何言ってんだよお袋!!」
「とか言っちゃって、まんざらでもないんじゃないの? ねぇ、タオファさん」
「顔真っ赤だし。わっかりやす!」
「すみまセン、マンザラデモナイ、わかりませんでス。でも、私、シュンヤサンと結婚したいでス!」
 性懲りもなく意味不明な発言を繰り返されて、今度は飲みかけていた麦茶を吹き出した。
「コラ! そういうこと簡単に言っちゃダメよ、タオファさん!!」
「あら、でもタオちゃんに見捨てられたら一生童貞よ? わかってんの、春夜」
「うるせぇな、あと朝っぱらから童貞とか言うな!!」
「シュンヤサン、ドーテイって何ですカ?」
「ほら見ろ、気にしてんじゃねぇか! いいからとっとと会社行って来い!!」
 ハイハイ、と言いながら席を立ち、そのまま姉は出勤していった。いつもは俺と玄関で入れ違うのだが、今日は俺と彼女の様子を見届けるまでわざわざリビングで待機していたらしい。余りの羞恥に、また体温が上昇した。
「それにしても、料理まで上手だなんて本当に素晴らしいわ! ご両親がきちんと育ててくれたのね!」
 母も中華粥を味わいながら彼女を称賛したが、何故か彼女の顔に影が差した。視線は落ち、語気も弱くなる。
「ど、どうしたの? 私、何かまずいこと言ったかしら」
「イイエ。でも、両親じゃありませんでス。おじいサンとおばあサン、私、育てましタ」
「あら、そうだったの……」
 もしかしたら、早くに両親を亡くしているのかもしれない。そう考えたのか、母は慌てて話題を切り替えた。
「タオファさん、働いてばかりでそろそろ疲れてきたんじゃない? 春夜、明日バイトお休みでしょ? どこかへ連れてってあげなさいよ」
「きゅ、急に言われても……」
 唐突な提案に困惑していると、ズボンのポケットに入れていたスマホがメッセージアプリの受信音を鳴らした。姉からだった。
「えっ、コラボカフェやってんの!?」
 メッセージに添付されていたリンク先を開くと、喜ばしい報せが視界に飛び込んできた。思わず立ち上がり、大声で叫ぶ。
「ちょっと、どうしたの!? びっくりするじゃないの!」
「collaboration cafe……もしかして、オンミョウシジンのですカ!?」
「そう! 池袋でやってんだって!!」
 彼女と二人で目を輝かせ、頷き合う。これはもう、行くしかない。
 コラボカフェとは、人気のあるアニメやゲームのキャラクターたちをイメージした飲み物や料理を提供してくれて、オタクが作品の世界観に浸れる最高に幸せな空間のことである。その上キャラクターの描かれたコースターやテーブルクロスは無料プレゼントで、更に公式グッズもその場で買えてしまえる、まさに夢のような場所なのだ。しかも、ウェイターは全員コスプレをしてキャラになりきってくれるらしい。ファンにとってはたまらない演出である。
「タオファさん、明日、姉貴と三人で行こう!!」
「ハイ、もちろんでス!!」
 興奮気味にハイタッチをして、早々に盛り上がる。そんな俺たちを見て、母も楽しげに微笑んでいた。

                   *

「いらっしゃいませアル! 何名様アルか?」
「あ、予約した天川です。3名です」
「かしこまりましたネ! こちらに座るヨロシよ」
 赤髪のお団子頭がトレードマークの朱雀になりきったウェイターが出迎え、俺たちを予約席へ案内してくれた。テーブルには既にコラボカフェ限定デザインのテーブルクロスが用意されていて、早くも胸が弾む。BGMはもちろんアニメのオープニングテーマで、四方の壁には各キャラクターの原寸大ポスターが飾られていた。装飾も本格中華料理店のようで、高揚が抑えられない。俺と姉は向かい合うように座り、タオファさんは俺の隣に腰掛ける。
「うっわ、すっげえ嬉しい……来れて良かったぁ……」
「でしょ? 感謝しなさいよ、このお姉様に」
 腕と脚を組んだ姉が、少しのけぞって得意気な笑みを見せる。その要求を躱すべく、姉の推しに扮したウェイターを指差した。
「お、あそこに麒麟もいんじゃん。行って来いよ、姉貴」
「あっ、ホントだ!! ちょっと写真撮ってくるからメニュー頼んどいて!」
 瞬間移動の如き素早さで麒麟の元へ向かい、夢中になってツーショット写真を撮る姉。そこへ白虎もやって来て、調子に乗って様々なポーズを注文している。あれはしばらく帰って来ないだろう。
「楽しそでスね、ユウカサン」
「楽しそうだけど、興奮し過ぎて引かれてんな」
 頬杖をつきつつ、呆れ気味にその様子を眺めてからメニューを眺める。
「朱雀はトマトラーメンとアセロラジュースで、青龍はチンジャオロースと緑茶、白虎は八宝菜とタピオカミルク、玄武はイカ墨ラーメンに烏龍茶か。タオファさんはどれがいい?」
「私、青椒肉絲(チンジャオロゥスゥ)と緑(ユー)茶(チャー)にしまス。シュンヤサンは西紅柿(シーホンスー)拉面(ラーミェン)でスか?」
「おう。で、姉貴は麒麟の炒飯とマンゴージュースに決まってるから、あとは中国茶のドリンクバー三人分だな」
 すみません、と言いながら手を挙げると、また朱雀が来てくれた。
「ご注文ありがとうございますアル! それじゃ、コースターくじ、引くヨロシ!」
 差し出されたのは、コンビニでもキャンペーン中に用意されるくじ引きの箱だった。コースターは銀色の袋に包まれていて、開けるまでその柄はわからなくなっている。生唾を飲みながら取り出すと、そこから出てきたのは残念ながら玄武の柄のコースターだった。
「くそっ、玄武かぁ! タオファさんは?」
「ア……私、朱雀でス!」
「マジか!? あー、でも青龍でも白虎でもないから、俺とは交換できねぇよな……」
 肩を落としながら呟くと、気を遣わせてしまったのか、彼女が朱雀のコースターを俺に手渡した。
「いいでスよ、私、シュンヤサンに朱雀あげまス。そして、玄武もらいまス」
「え、でも……」
「いいんでス。私、玄武も好きなりましたカラ。玄武、シュンヤサンみたいでス。似ていまス」
「あ、そう……」
 言われるがまま、コースターを交換する。玄武のそれを受け取ると、彼女は微笑んで、幸せそうに見つめて頬を桃色に染めた。
「あ、俺、お茶淹れて来るわ! タオファさん、どれがいい?」
「私、普(プー)洱(アル)茶(チャー)がいいでス」
「オッケー、わかった!」
 またどうしたらいいのかわからなくなってしまって、咄嗟に席を立ってドリンクバーへ向かい、ついでに姉の行方を探った。撮影に夢中になっていた姉は、後からやって来た客のグループと盛大に騒いでいて、互いにハグを交わしていた。どうやら、高校か大学時代のオタク仲間たちと偶然再会できたらしく、涙目になって喜び合っている。助けを求めるつもりだったが、この場は一人で対処するしかないようだ。諦めて席へ戻り、プーアル茶とウーロン茶をテーブルに置く。
「ありがとうございまス、シュンヤサン」
「ああ、別に……」
「…………」
「…………」
 お茶を啜ってから、何故か互いに無言になってしまった。沈黙の重さに耐えられず、勇気を振り絞って震える唇を開く。
「あの、さ……タオファさん」
「ハイ、何でスか?」
「えっと、その……」
 無意味に頭頂部を掻き、視線を泳がせながら不器用に言葉を繋げていく。きっと、今の俺の顔は推しの髪色よりも赤い。
「俺と、さ……その……」
「ハイ?」
「いや、あのさ、そもそも何で日本語を勉強してるのかなと思ってさ!」
 結婚したいというのは、まさか本気なのか――と聞こうとしたが、根性のない俺は途中で話題を変えて誤魔化してしまった。
「何で、私、日本語勉強していまス、でスか?」
「そうそう!」
「ソレは、私、日本、大好きでスから。日本で、留学したいでスから。働きたいでスから」
 無垢な幼子にも負けない眩い笑顔で答えられてしまい、思わずまた目を逸らしてしまう。
「それは……どうして? 何か、きっかけとかあったの?」
「もちろん、アニメでス。トテモ面白くテ、素敵でスから」
「日本のアニメって、どうやって見てんの? ネットで?」
「今はパソコンやスマホですけド、私が子どものトキは、テレビでス」
「て、テレビで!?」
「ハイ。シュンヤサン、どうして驚きまスか?」
「どうしてって……」
 だって、中国人って大嫌いだったはずじゃん、日本のこと――そんなこと、言えるわけない。言ったらきっと、彼女は泣きそうな顔になってしまう。
「お待たせしましたネ! 朱雀のトマトラーメンとアセロラジュースに、青龍の青椒肉絲と緑茶アルヨ!」
 そこへ、タイミングよく朱雀が料理を運んで来てくれた。食欲をそそる匂いが湯気と共に立ち上り、俺たちの視線を釘付けにする。麒麟のメニューは、姉がいるところにお願いしますと頼んでおいた。
「美味しそうでス! 食べまショ、シュンヤサン!」
「そ、そうだな!」
 いただきます、と二人揃って手を合わせて唱えてから箸を割る。麺を啜ると、濃厚な鶏ガラのトマトスープが麺によく絡んでいて、期待を大きく上回る味が感じられた。
「うん、美味い!」
「これも美味しいでス! 良かたでスね、シュンヤサン!」
 空腹も手伝って、俺たちはあっという間にそれらを平らげてしまった。俺に至っては、スープまで飲み干してしまう始末である。
「はー、美味かった! ごちそうさまでした!」
「ごちそうさまでしタ!」
 再びタイミングを合わせて合掌し、互いに笑い合った。気まずい空気はどこへやら、コラボカフェの演出と料理のお陰で俺は事無きを得たかのように思われた。
「シュンヤサン」
「ん、何?」
 ところが、彼女は俺の心の内を見抜いていた。
「確かに、中国人、ミンナ、日本、嫌いでしタ。私のおじいサン、今でも、日本のコト嫌イ。だから、私ノ留学、許しまセン。でも、今、違いまス。特に学生、ほとんどミンナ、日本好きでス。大好きでス。日本のアニメ見まス、漫画と小説読みまス、日本の物欲しいでス。日本のご飯食べまス、日本行きたいでス。日本語勉強しまス、留学したいでス、働きたいでス。だから、誤解しないでくだサイ。中国人、ミンナ、日本嫌い、違いまス」
「…………」
 彼女は真っ直ぐ、射るように俺を見つめていたけれど、決して責めるような口調ではなく、瞳は終始穏やかだった。しかし、その平静さは突如崩される。
「でモ、日本人、中国のコト、好きじゃありませんでス。中国と日本、時々、凄く仲悪いだかラ、シュンヤサンも、中国人、嫌いかもしれなイ。怖いでしタ。不安でしタ。ですから、私、アキサンにお願いしましタ。名前、タオファじゃなくテ、モモカにしましタ」
「タオファさん……」
 気丈に振舞っているように見えたが、よく見ると睫毛が微かに震えていた。やがて涙腺も緩み、目尻から雫が一粒ずつ零れ落ちていく。
「でも、シュンヤサン、ユウカサン、ホシエサン、ミンナ、トテモ優しい。私、トテモ嬉しいでス。感謝していまス。大好きでス」
 指先で涙を拭いながら、彼女は健気に笑って見せた。そのいじらしさに堪らなくなって、俺は衝動に駆られ、気づけばか細い彼女の体を抱きしめていた。あまりの出来事に驚き、慌てた彼女が大声で叫ぶ。
「しゅ、シュ、シュンヤサン!? 何をしているでスか!?」
「そーよ、とっととタオちゃんから離れなさいこのむっつりスケベ!!」
 俺のTシャツの後襟を掴み、強制的に彼女から引き剥がす姉。首が圧迫される苦しさに喘いでからようやく、俺は己の愚行に気づいた。周囲からの白けた眼差しや冷やかしの口笛に背筋が凍り、瞬時に青ざめる。
「ご、ごめん、タオファさん、俺……!!」
「何謝ってんのよ!? 私が会計しとくから、とにかくアンタたちは外で待ってなさい!!」
 背中を押され、無理やり店外へ押し出される俺。我に返り、急いでついてきた彼女。しかし互いに顔を合わせることができず、真夏の紫外線に晒されながら、ただただ頬を赤くすることしかできなかった。
「あ、あノ、シュンヤサン……」
 おずおずと口を開いた彼女が何か言いかけると、姉が勢いよくドアを開け、仁王立ち姿で俺を力強く睨んだ。
「春夜。アンタ、自分がしたことの意味、ちゃんとわかってんの?」
「い、意味って……」
 萎縮しながらそれだけ言うと、姉は呆れた顔で大きな溜め息を吐いた。
「もういいわ。これあげるから、タオちゃんとデートして来なさい。私はこれからあの連中とカラオケ行って来るから」
「は、ハァ!?」
 問答無用、と言いながら俺の胸に一万円札を押しつける。言いたいことは山ほどあったが、姉とその友人たちは楽しげに喋りながら、あっという間に都会の雑踏へ姿を晦ませてしまった。呆然と立ち尽くし、無言になる俺たち。そして、互いに助けを求めるように見つめ合う。
「…………」
「…………」
 やがて、どちらからともなく吹き出し、腹の底から笑い合った。
「うちの姉貴、ホント強引だろ!? 参っちまうよな!」
「でも、シュンヤサンも、ゴーインでしタよ?」
「あー……それは、そのー……」
 俺は再び言い淀んでしまったが、彼女はもう困った表情などしていなかった。夏の空を照らす太陽のような、生き生きとした顔にすっかり戻っている。
「シュンヤサン! 私、行きたいトコロありまス! 買いたいモノありまス! 行きまショ!!」
 彼女が俺の手を取り、街へ駆け出していく。その手はとても柔らかく、肌は滑らかで、また胸が高鳴ってしまう。この鼓動が彼女に伝わって欲しいような、伝わって欲しくないような、自分でもよくわからない感情に雁字搦めになったが、不思議と不愉快ではなかった。むしろ、ずっとこの時間が続けばいいのに、とさえ思っている自分がいる。
 それから、俺たちは心ゆくまで遊び回った。中古のグッズ屋や同人誌を扱う専門店へ赴き、姉から受け取った資金で思う存分散財し、悦に浸った。それらを鑑賞するために入ったカラオケボックスで、気づけば互いに好きな歌を熱唱し合っていた。驚いたことに、アニソンのみならず、彼女は今年の大ヒットドラマの主題歌まで知っていて、更にそれを日本語で歌っていた。しかも歌唱力もなかなかのもので、思わず聞き入ってしまうほどだった。
 俺たちは、確かに国籍が違う。育った土地も別々で、異なる文化の中で知識や経験を培ってきた。だけど、こうして同じ言葉を話したり、好きなものを共有したりできている。もしかしたら互いに分かり合えたり、惹かれ合ったりすることだってあるかもしれない。そもそも同じ人間なんだから、そういったことが不可能であるわけがない。
 それなのに俺たち人間は、どうしていつまでも国境を挟んで睨み合ったり、互いに侮蔑したり、攻撃したり、過去に拘って恨み続けたりしてしまうんだろう。そんな歴史が、国と国との関係が彼女のような心優しい人たちを傷つけているのだとしたら、俺たちはこれから、どうあるべきなんだろう。夢のような時間を過ごしながら、俺は時折、そんなことを考えていた。
「シュンヤサン」
「えっ、何?」
 帰り道。すっかり暗くなった車窓の外をしばらく眺めてから、彼女は俺に言った。
「今日、トテモ楽しいかったでス。本当にありがとうございましタ!」
「いや、俺こそ楽しかったよ。ありがとう」
 楽しかった、なんて言葉で果たして収まりきるのだろうか。学生時代から続く自己嫌悪、姉と比較された時の劣等感、父に「失敗作」と言われた時の絶望、胸を張って同級生に会うこともできないフリーター、しかも彼女どころか友人さえ碌にいないオタク……惨めで堪らない人生だったのに、そんな俺の毎日に、突如差し込んだ光。それこそが、彼女という存在なのだ。
「……あのさ、タオファさん」
「ハイ、何ですカ?」
 電車に揺られつつ、つり革を握る力を少し強めて尋ねる。
「日本には、いつまでいられるの?」
「エット……イベントの日から、いヵ月間でス。ホントは、京都や奈良にも行くはずでしタカラ」
 一ヵ月――それなら、間に合うだろうか。
「タオファさん、一緒に……合同誌(アンソロ)、作らない?」
「エ……!?」
合同誌とは、複数人の作家たちの作品を一冊にまとめた同人誌のことである。つまり、アンソロジーということだ。
「いや、違うな……アンソロじゃなくて、合作しよう。ほら、漫画はうまく描けないって言ってたじゃん? だから、俺の小説の挿絵を描いてよ。青×白なら、いいでしょ? 俺、盆コミにも出るからさ……良かったら、どう?」
 盆コミとは、文字通りお盆休みの時期に開催される、日本最大規模――いや、世界最大規模のイベントのことである。当たって砕けろの精神でスペースの抽選に申し込んでみたところ、なんと運よく当選したので、俺はこの夏、人生初の盆コミデビューを果たせるのだ。
「ほ、ホントですカ、シュンヤサン……!!」
「も、もちろん。タオファさんさえ、良ければだけど」
 目を輝かせて俺の顔を見る彼女の視線に耐えられず、網棚の上の美容整形の広告を見つめる。
「シュンヤサン……ありがとうございマス! やりまショウ、私、トテモ頑張りマス!!」
「わっ、ちょ、タオファさん!!」
 歓喜の声を上げながら、何と彼女は俺に抱き着いてきた。周囲の責めるような視線や咳き込みに耐えかねて、俺は思わず彼女の手を引いて次の駅で降りてしまった。家の最寄り駅は、まだ当分先である。
「ゴ、ごめんなサイ、シュンヤサン……私、興奮し過ぎましタね」
「う、うん……とにかく、電車では静かにしてて。落ち着いたらまた乗ろうか」
 しかし、やはり責任を感じているらしく、見るからに落ち込んでいる。小さく溜め息をついてから、俺は自販機で冷たいコーヒーを買った。
「ひゃっ!?」
 俯いていた彼女の頬にそれを当てると、予想通りの反応が来て思わず笑ってしまった。
「ほら、これでも飲んで。奢るから」
「ソンな、申し訳ないでス!」
「いいよ、これぐらい。気にすることないって」
「……ハイ! ありがとうございマス」
 微笑んで、小さい缶コーヒーを受け取る彼女。俺も再び彼女に触れたいと思ってしまったが、今度は何とか抑えられた。
 次に来た各駅停車に乗ると、席が空いていたので二人で一緒に腰掛けた。疲れてしまったのか、彼女はいつの間にか眠っていて、頭を俺の右肩に乗せてきた。シャンプーの香りが鼻を掠める。これは慣性の法則によるものなのか、それとも……最寄り駅に到着するまで、俺はずっと一人で悶々とし続けた。


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