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承認欲求→他力本願→自己肯定

“自己肯定感”が低いとか高いとか、私の考察だと承認欲求からスタートしているように思える。もちろん、誰だって自分のことを認めてほしい。ただ、私にとって認めることは尊重するってことになる。一方で、巷の承認欲求は一種の他力本願という気もしている。それいいねって言ってもらわないと、本当にいいのかどうかわからない、、みたいな。
好き嫌いとかいい悪いとか、快不快とか、判断を委ねている感じがしてならないのだ。

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自我が急成長し始める小学校高学年から中学を通して私が感じていたことは、同じような環境や年齢の人たちの中に押し込まれている間、満足は決して得られないってことだった。その世界に多様性を認める空気は皆無で、陽キャラか陰キャラかがすべて。しかしながら、陽キャラに属しようものなら、さらなる協調性が求められる。すべての価値判断はボスメスゴリラに委ねられる村社会なのだ。その判断基準は恥ずかしいかどうかであり、私はそれを本当に嫌悪している。

余談だが、大人になってからの友人に「恥ずかしい」を繰り返されブチギレた過去もある。ほっといてくれ、なのだ。こうあるべきという考え方を押し付けられた瞬間の憤りは、同時に自分の未熟さを痛感させられる瞬間でもある。憤り+痛感させられる=嫌悪という図式になっているのだ。

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話を承認欲求に戻そう。

人(ボスメスゴリラ的な何か)から認められなければ自分のことを認められないって考えている人がいるのなら、そんな村からは一度離れてみることをおすすめしたい。環境って、ものすごく影響されちゃうものだからだ。
そして、自分で決断することを少しずつ増やしてほしい。その決断を他人から意見されたとしても、ほっといてくれの姿勢でいいのだ。もしかしたら有効な意見かもしれないけれど、それでも自分の決断したことをやってみるだけやってみてほしいのだ。だって、自分で決断したことは、たとえ失敗に終わっても納得できるものだから。もしかしたら私だけかもしれないけれど、、、多分そんなことはないと思う。納得できるって、実に清々しいことなのだから。

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ここまでくると、もはや自己肯定って何??という気分にならないだろうか。自分で選んで歩んでいる人生には、否定も肯定もない。失敗なら多々ある。やっちゃったな、、という印象はあれど、こうしていればああしていればという後悔はない。

閲覧数は一番多いが、スキが極めて低いこちらのnote。

私はエゴをもっともっと尊重していいと思っている。時にエゴが強くなりすぎたとしても、そこから他人を尊重する重要性に気づけるはずだ。
それこそが、私が愛してやまないル・ポールのドラァグレースでの決めゼリフ If you don't love yourself, how the hell you gonna love somebody else! だと思ってる。


Mika(@mikachant)でした。

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