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我々は干渉し合って生きている

身近な関係から、そんなに身近じゃない関係、まったく身近じゃない関係
あらゆる関係の中で、面と向かってだったり面と向かわずだったり、ああでもないこうでもないと意見を言い合う。

誰しも意見を持っている。だから、『議論はほとんど例外なく、双方に、自説をますます正しいと確信させて終わるもの』であり、『議論に負けても、その人の意見は変わらない』は正しいと思う。(何かの本から引用)

つまり、バックグラウンドや現在の状況や心境が違う他者とは、ものの見方や捉え方が違うことを念頭に置くこと。さもないと、分かり合えないばかりか嫌な気分にもなる。

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わたしが議論をしているとき、じぶんの考えを伝えたいって思いでいる。で、ある段階でフラストレーションを感じてくる。こうなってはじめて、お互いに見方が違うから話し続けても無駄って感じる。

そもそも最初から議論は必要ないのかも。じぶんの考えを伝えて、相手も意見を言ってきたなら、「そういう見方もあるよね」でおしまい。だってさ、見ている世界が違うんだもの。そのことを尊重し合えたら双方ハッピーじゃないのかな。

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というのも、わたしは好戦的な性質があって、チャレンジは受けて立っちゃいがち。での結果は、疲弊すれど実りなし。だから、“見ている世界が違うんだからしょうがない”って諦めていこうと思う。
その一方で、意見を一方的にぶつけられて疲弊している人もいる。そういう人たちも、積極的に諦めてほしい。
これは冷めた目線ってわけじゃなく、他者のリアリティを無理やり変えることはできない。そのことを、ただ受け入れる。

での、じぶんのリアリティを生きていけばいい。じぶんの世界をじぶんで構築する清々しさ!他者の意見は、参考にさせてもらいますとしか言えないってわけ。

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インド哲学での暴力の定義は、実際に殴ったりすることだけじゃない。言葉で傷つけることも、「あいつ、馬鹿だな」とか考えることも含まれる。
それだけじゃなく、「あいつ、あなたのことを馬鹿だって言ってたよ」とかあおり立てることもそう。誰かがひどい目にあっているのを見て「ほらね、やっぱり」とか思うこともそう。

これらの暴力を控えることで、じぶんの周りで同じような暴力が消滅するっていわれてる。じぶんの構築する世界が悪意や敵意が少ない世界でありたいなら、まずはじぶんから。


Mika(@mikachant)でした。

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