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花譜4thワンマンライブ「怪歌」から考える、バーチャル世界のアーティストの今後

花譜4thワンマンライブ「怪歌」を見てきた。バーチャルシンガーとして活動してきた彼女が、「廻花」として実世界へと踏み込んできたこのライブは、彼女や神椿だけでなく、近年増えてきたバーチャルを舞台に活躍するアーティスト、ないしは顔出しせずに活動するアーティストのあり方に大きな変化をもたらす転換点になりうると思った。

人前に出ずに完結する音楽活動

ボカロ文化の発展が1人で完結する音楽活動を生み出し、それと歌い手文化が合わさることでインターネット上で完結する音楽活動が発展した。米津玄師やAyaseなどのボカロP出身アーティストが近年増えてきたことを考えると、その偉大さがよくわかると思う。

ボカロPや歌い手としての活動の特徴は、人前に出ずに完結することにある。「人に見てもらう」というエンターテイメントとして至極当たり前の行為が、インターネットの普及により人前に出ずに完結する。これによりかなり創作活動の敷居が下がった側面もあろうが、一方でいつまでも人前に出ないわけにもいかない、という問題がある。

人気なアーティストでもCDの収益だけで食べていくことは難しい。ライブを開催し、チケットとグッズを売るというのは音楽で食べていくには必要な活動である。収益面だけでなく、人気が出ればライブはファンにも当然望まれることになる。

バーチャルでの活動という選択肢

かつては一般には顔を出していなかったアーティストも、ライブの時は顔をだすという選択肢を取る人が多かった。それは単に顔を出さずにライブを遂行するのが困難だったからである。しかし近年ではバーチャルアバターという選択肢が普及したのもあり、「顔や姿を出さない」という選択肢がポピュラーになりつつある。昨年末の紅白歌合戦ですとぷりやadoが顔出しなしでパフォーマンスをしたのも記憶に新しい。花譜もバーチャル技術の恩恵を受けて、ライブでも姿を見せずに活動を続けてきた。

個人的には姿を見せないライブパフォーマンスは嫌いである。ライブ観戦の醍醐味は、普段は画面の向こうにいるアーティストと一つに繋がった空間で音楽を共有することであり、姿を見せないとなるとせっかくお金を払って出向いているのに結局アーティストは画面の向こう、という事態になってしまう。

「怪歌」、そして「廻歌」を観測して

「怪歌」の前半は、私の"姿を見せないライブ嫌い"を強めるものとなった。ライブでも姿を見せないアーティストのライブに行くのは今回が初めてで、行く前は「食わず嫌いはやめておこう」と思いライブに出向いたが、やはり「せっかく出向いたのに花譜は今日も画面の向こうか」という思いが強かった。

アーティストの姿が見えないとなると、「本当にそこにいるんか?」とも思ってしまう。録音ってことはないだろうけど、アバターの動きは事前に作って本人は歌ってるだけなんじゃなかろうか、とか。

歌声には感動しつつもなんとなくモヤモヤを抱えた中での、「廻花」の登場。花譜オリジン(中の人)のシルエット出しというとんでもない瞬間に立ち会ってしまった。

ビビった。

特にVtuberなんかに親しみがある人はわかると思うが、バーチャル世界で活動している人がたとえシルエットであっても3次元の実体の存在を表に出すのは結構な”タブー”である。もともとこちらの世界(三次元)で活動していた人が新たに2次元アバターを用いて活動するパターンはまああるが、バーチャルの世界にいた人がこちらに踏み込んでくる例はなかなか無い。

花譜はもともと活動開始が中学生ととても早く、表舞台での活動が難しいが故のバーチャルでの活動開始であった。その当時に今の展開を予期していたかどうかはわからないが、彼女が20歳となり今後も活動を続けていくとなれば、オリジン(中の人)の姿としての活動は必然的に選択肢に上がるものであったと思う。

ただ、彼女のこれまでの活動はアバターを道具として用いたものではなく、バーチャル世界の住民としての文脈の中にあった。バーチャルの文脈にいる以上、3次元の実体を出すのは”タブー”である。彼女にとって並々ならぬ葛藤があったに違いない。

このタブーを打ち破ってのシルエット出し。しかも今までの世界観を損なうことなく、バーチャル世界での活動とつながったものとして、「廻花」としての活動が始まった。この活動は、私が抱えていた"ライブでも姿を見せてくれないアーティストへの懐疑心"に対して、一つの答えを与えてくれるものになると感じている。

花譜と廻花の今後に期待である。


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