勇者ズム!SS8  著:水沢あきと

   『勇者ズム!温泉回』

 バス停で降りて、道なりに歩くこと約五分。

 ヒグラシの鳴く夕暮れ時、辺りを鬱蒼とした森に囲まれた道に、四人の少女達が立っていた。

 彼女達は道端に立てられた木製の看板を目にして、それぞれ、戸惑いと驚きが入り交じったような複雑な表情を浮かべている。

「日本にもモンスターが出るんだ……。巣がこの近くにあるのかな?」

 襟元から袖口、胸、スカートに至るまで、ふんだんにフリルがあしらわれた衣装に身を包み、長い髪をツインテールにまとめたアサシン少女——小刀禰(ルビ:ことね)ミアが、柳眉を顰めて、少し不安そうに呟く。

「うーん、ちょっと想定外だったなあ。でも、こういうときは元勇者として、困っている町の人達を助けないといけないよね!」

 異世界アナストウェルの元勇者・姫川セリナが艶やかな長い黒髪を揺らし、右手で拳を握って見せる。

「えー、なんでそうなるわけ!? あたしたち、遊びに来たんだよ!? 貴重なバイト代を注ぎ込んで、念願の温泉旅行だよ! たったの一泊で、時間も無いんだよ!?」

 露骨に嫌そうな顔をしつつ、ギャル口調で文句を言うのは、元僧侶の綾瀬マリー。ウェーブのかかった黄金色の髪を不機嫌そうに手でいじる。

「まあ、セリナがそう言うんだったら、ボクも手伝うよー」

 あっけらかんとした口調の元宮廷魔術師・天ノ川リサに対して、マリーが呆れた表情を向ける。

「リサってば、日本じゃ、ほとんど魔法を使えないこと、忘れたの?」
「あ、そっかー。あはははー」

 一方のミアは少し緊張した面持ちで看板に一歩近付くと、固い口調で言った。

「もし、このモンスターと戦うことになったら、俊敏な動きが求められる。盾があればいいけど、最低限、籠手は必要……」

 看板にはモンスターの絵が描かれている。
 二本足で立ち上がり、頭上に掲げた両手の先には合計十本の鋭い爪、赤い眼に鋭い牙を剥きだしにした獰猛な顔つきの魔物。

 そして、その看板に、赤い太明朝体で書かれている大きな文字は……。

  熊出没注意!
     ○○町観光協会

「確かにミアの言う通り、鋭い爪を持ったモンスターの攻撃には、充分に注意しなくちゃいけない。場所によっては致命傷になるからね。とはいえ、相手の体は大きいから、早めに懐に飛び込んで急所を狙えば、倒すのはそれほど難しくは無いはず」

 顎に手を当てたセリナが勇者らしく戦術の検討を始めると、マリーがげんなりした表情になって、しゃがみこむ。

「えー、マジで戦う気なの? めんどくさー」
「楽しい旅の思い出になりそうだし、別にボクはいいよー」

 一方で、ミアは看板の『モンスター』を難しい表情で睨み付けたまま、ぽつりと言った。

「……出来れば、これとは戦いたくないな。アナストウェルのモンスターでとてもよく似ているの、知っている」

 リサが一瞬、きょとん、とした表情を見せた後、すぐに思い当たったのか、左の掌に右拳をぽんと落として言った。

「ああー。そういえばいたねー。六人がかりで戦っても、なかなか倒せなかったよねえ」

 マリーも腕組みをして、空を仰ぎ見ながら言う。

「あたしの『即死魔法』も全くきかなかったし、あれは苦戦したよねー。同じような属性のモンスターだったら、ちょっとヤバイ感じかもー」

 と、セリナが三人の前に回りこみ、

「大丈夫だよ!」

 両腕でガッツポーズを取り、明るい声で言った。

「もしかしたら強敵かもしれない。でも、みんなの力を合わせれば倒すことは出来るはずだよ! 私達は、あの魔王を倒したんだし!」

 リサとマリーが顔を見合わせ、それからくすりと笑う。

「うん、まあ、セリナのいうとおり、ボクたちだったらなんとかなるよね」
「まったく。セリナったら、ほんと、前向きなんだから」

 マリーは苦笑しつつ、ミアを見て、

「ミアもいいよね。……って、あれ……?」

 一方、ミアは一人、両手を胸の前で重ね合わせ、相変わらず固い表情のままだ。彼女がこんな深刻な顔を見せるのは、日本に来てから初めてのことかもしれない。

 三人が顔を見合わせた、そのときだった。

 車のエンジン音が近付いてきたかと思うと、プップッ、と短くクラクションが鳴らされ、ワゴン車が彼女達の傍らに停まった。車体の側面には、温泉旅館の名前が書かれている。今日、セリナ達が宿泊する宿だ。

 運転席の窓が開き、中から、旅館の名前が入った半被を着た頭の禿げ上がった人の良さそうな男性が顔を出す。

「今日、うちに泊まるお嬢さんたちだね? 宿まで乗っていきなさい。後ろの席の荷物を避ければ、四人は乗れるから」
「あ……、いえ! もう、すぐそこですし、大丈夫です。本来のお仕事ではないのに、お手を煩わせるわけには参りませんから」

 生真面目に答えてしまうセリナ。エイランド王国の第三皇女として、王室に仕える人々の業務の負担を減らすことを常に考えていた彼女としては当然の発言だ。

「ははは、遠慮しなくて結構ですよ。それに、その看板見たでしょ? 熊が出るかもしれませんから」

 それから男性は、おどけた声で夜闇が迫る森の中を指さして、

「……って、言っている傍から、——ほら、あそこに!」

「「「「…………っ!!!」」」」

 直後。
 彼の視界から、一瞬にして少女達の姿がかき消えた。

 いや——、正確にいえば、瞬時にして、運転席に座っていたはずの彼自身の体が、後部座席の床に移動していたのだ。

 戸惑う彼の眼前には、金髪の少女、マリーがいて、彼女は片目を瞑ってみせると、

「モンスターならあたしたちがやっつけちゃうから。おじちゃんは、ここに隠れていて!」

 直後、荷物として積まれていた、シーツや枕カバーなどのリネン類がどさどさと上からかぶせられ、ついでにビニル紐でぐるぐると縛り付けられてしまう。

 軽い身のこなしで木の枝に飛び乗り、森の奥を凝視するのは、ミア。

 地面から引き抜いた道路標識を、剣の代わりに構えて、森の中へ駆け込んでいくセリナに、ステッキ代わりに木の棒をぶんぶん振り回し、後衛として続くリサ。

 マリーも人差し指と中指を額に当て、

「あたしも行ってくるね! だいじょーぶ、すぐ戻って来るから!」

 開いた扉から外に飛び出そうとする。

「あ、あの……! ちょっと……、待っ……!」

 リネンの山が崩れ、憔悴仕切った顔のおじさんがシーツの間から顔を出して、

「じ、冗談……、冗談……、ですからっ!」

 かすれた声で叫ぶ。

「熊……! いませんからっ!」

「…………へ?」

 マリーが動きを止め、間の抜けた顔でおじさんを見た。

  *

 旅館の大浴場は露天風呂で、深緑の木々に囲まれた乳白色の湯船の中では、四人の少女がくつろいでいた。

「うーん、食べた食べたぁ!」

 膨れたお腹をぽんぽん叩きながら、満足げな表情のリサ。お湯に浸かった四肢をだらしなく大の字に広げている。

「なんかすんごい豪勢だったわよねー! 特に、カニ食べ放題! カニカニ!」

 マリーが、両手でちょきちょきとカニばさみを真似る一方、セリナは頬に人差し指を当てながら、少し不思議そうな表情をする。

「でも、私が予約したプランではカニ食べ放題のメニューは無かったはずなんだけど……」
「あー、あれは、宿のおじさんから、脅かしてしまったお詫びだってさー」

 あっけらかんと笑うマリーに、セリナがちょっと驚いた表情を見せた後、苦笑いする。

「そんな気にすることなんてないのに。結局、モンスターはいなかったんだから、良かったじゃないかなあ」

 と、今まで黙っていたミアがむすっ、として、セリナに顔を近付ける。

「セリナちゃんは、人が良すぎだよ! それなりに緊張したんだよ? 今のミアたちは、ちゃんとした武器も持っていないわけだし……!」

 一人、先陣を切って、森の奥まで進んだミアとしては、全く納得がいっていないようだ。

 と、マリーがぽんぽんとミアの頭を撫でながらなだめる。

「まあまあ。最終的にはあたし達がおじさんの方を驚かせちゃったわけだし? カニの食べ放題がついたんだから、水に流しちゃいなよ」
「うーん……。だけど、宿の人、モンスターはときどき出るから注意して、って言っていたよ。特に夜は出歩いちゃだめだって。冗談にも言って良いものと悪いものがあるよ!」
「ミアにしては引きずるなあ。……ね、リサもそう思うでしょ?」

 そう言って、リサが大の字になっていた岩の方に視線を向けるが、そこに彼女の姿は無い。

「あれ? リサは……?」
「さっきまでいたよね……?」

 皆がリサを探して、きょろきょろと辺りを見回したそのとき。

 ミアの真後ろから、ざばあん、という大きな飛沫とともに、リサが水中から顔を出したかと思うと、そのまま背後からミアのおっぱいをわしづかみにする。

「……ひゃっ!?」
「取ったりー!」

 突然の出来事にミアが目を真ん丸にして固まる一方、リサは十本の指で、ミアのGカップをぐわしぐわし揉みしだく。

「ひゃ……ん!?」
「いっひひひ。いいですな、いいですなぁ! 食後のデザートに、もちもち大福! このしっとりすべすべな手触り感、たまらんですぞ……!」

 顔を真っ赤にして、艶っぽい声をあげてしまうミア。

「ちょっと、リサ……、くすぐったい……、やめてよぉ……!」

 バチャバチャと周囲に飛沫をまき散らしながら、必死にセクハラの魔手から逃れようとするミア。

「うーん、シビルのおっぱいは、すべすべの肌触りだけど、ミアのは、もっちり吸い付く感じがたまらないんだよねー」

 セリナは赤面しつつ狼狽える一方、マリーは、頭をかきながらため息を吐く。

「あー、久しぶりだから忘れてた。リサはみんなが裸になると、途端におっさん化するんだったっけ」
「うぅ、ううう……!」

 と、暴れるミアの肘が、偶然にもリサの顎にヒットする。

「…………ぎゃっ!?」

 その隙にミアは、セリナの後ろへと隠れる。

「セリナちゃん、助けてよぉ!」

 ガタガタ震えた彼女は、すっかり涙目に涙声。

 一方、復活したリサは、目を光らせ、襲いかかる熊のように両手をにぎにぎしながら、得物へと近付いていく。

「スキンシップだよ、スキンシップ! 肌の触れ合いは、一体感を高めるのにとっても有効なんだよ!」
「ふん。なーにがスキンシップよ。リサが揉みたいだけでしょ」
「え? マリーも揉んでほしいの?」
「なんでそうなるのよ!」

 と、リサは一瞬、なにかに気付いたのか、真顔になって視線を下に逸らし、ぼそりと一言。

「あ……、でも……、洗濯板……」
「なっ……」

 マリーは言葉を失い、その場に硬直する。

 そのすきに、ついにミアとセリナの正面に立ちふさがるリサ。

「ちょっと、リサ! ミアが嫌がっているんだから……!」

 セリナが、勇者らしく、仲間を守るべく両手を広げて割って入る。

「……って、ひゃあ!?」

 直後、周囲に響いた悲鳴はセリナのものだった。

 リサが、ミアの代わりにセリナの両胸を捕らえたのだ。

「いっひひひ! 勇者様、一年前と比べて、また少し成長なさったんじゃないですか!」
「ちょ、ちょっと、やめて! リサ! 離しなさいって!」

 魔の手から逃れんと暴れるセリナ。

 予想外の出来事の連続にパニクったミアは、リサから引き剥がそうと、セリナのお腹に両手を回し、ひっしと抱き付く。

「リ、リサちゃん、ダメだよ! やっぱりミアのを揉んでいいから、セリナちゃんは離してあげて……!」
「ぐへへへ。順番に揉ん……スキンシップするから待っておれ!」

 と、そのときだった。

 ——どくん。

 突然、ミアの心臓が、一回、大きく脈を打った。

 全ての音が遠くなり、顔から血の気が引く。

 ミアの目は、ある一点に囚われたまま、そこから全く動かすことが出来ない。

 彼女の視線の先は、セリナの背中——右の肩甲骨辺り。

 白い肌において一際目立つ、斜めに走った古い傷跡。

 脈が次第に速くなる。

 お湯に浸かっているはずなのに、体が悪寒に襲われる。

 ——思い出した……。セリナちゃんのあの傷って、あのときの……。
 
「あー、まったくもー、うるさいっ!!!!」

 唐突に、マリーの怒声が響いた。

「ぐはっ!?」

 リサのみぞおちに拳が入り、彼女はそのまま湯船の中にぶくぶく沈んでいった。

「ふんっ! 洗濯板で悪かったわね!」

 湯船の中で仁王立ちになって、リサの沈んだ水面を蔑んだ目で見下ろすマリー。

 あわわわ、と慌てながら、リサを助け起こそうとするセリナの傍では、ミアがどこか放心状態で立ちすくんでいた。

  *

 お風呂上がり。
 部屋には、既に仲居さんによって布団が敷かれていて、浴衣姿の四人はその上で思い思いの恰好でくつろいでいた。

「あー! めっちゃ美味しい! これよ、この味!」

 マリーが『温泉卓球優勝記念品』である高級カップアイスを上機嫌にパクついている横で、僅差で負けたリサが悔しそうに見つめながら、口の端からよだれをこぼしている。

 部屋の端によけられたテーブルでは、セリナが人数分のお茶を入れている。

「うー、おかしい。最後のボクのスマッシュのとき、マリー、卓球台を動かさなかった……?」
「負けたからって、言い訳はすっごく見苦しいと思うよー?」

 そう言って、最後の一口を相手に見せつけるようにしてあーん、と口に運ぶマリー。

「うう……」

 リサは正座した膝の上で拳を強く握りしめると、やがて勢い良く立ち上がって、

「じゃあ、もう一戦! もう一回勝負しよ! 今度は別の競技で!」
「はあ? 一体、なにをやるのよ」
「ふふっ……」

 眉間に皺を寄せ、訝しげな顔を浮かべるマリーに、リサが頭上に掲げて見せたのは、

 ——枕。

「え……、まじ……? いくらなんでも、子供っぽくない……?」
「いっくよー!」
「ちょ……、ちょっと待って!」

 直後、枕がマリーの顔にヒットし、彼女が後ろに引っ繰り返る。

「やった! まずは一ポイント先制!」

 右手でガッツポーズを決めるリサに、顔を赤くしたマリーが怒り心頭で起き上がるなり、

「ぎぇっ!!」

 弾丸の如き枕がリサの顔にヒット。

「やったなー!」

 起き上がりざま、力任せに宙を舞う枕は、

「……へ?」

 布団の上でぼーっ、とスマホを見ていたミアの後頭部にヒットし、彼女はそのまま前方に撃沈する。

「ちょっと、リサ! マリー! いい加減にしなさ……! ……きゃっ!?」

 止めに入りかけたセリナの顔面に流れ弾ならぬ、流れ枕が直撃し、真後ろに転倒。

 場が凍り付くのと、口の端を曲げた引き攣った笑顔で、腕をだらんと垂らしたセリナがゆらりと立ち上がるのはほぼ同時だった。

「やば……」
「あ、しまった……」

 戦慄する二人。

「ふふふ……。だからー、いい加減にしなさいって、言ったよね……?」

 直後、勇者の手により、枕の乱れ打ち弾が和室の中を飛び交うことになる。

 結局、枕投げという名の『勇者無双の殺戮ゲーム』はものの十分で中止となった。

 宿のおじさんが、おどおどした様子で部屋にやってきて、「他のお客様からクレームが入ってまして、少しお控えいただけますと……」と言ったからだ。

 とはいえ、おじさんは、夕方の件がトラウマになっているらしく、すぐに逃げられるように、部屋の前の廊下で土下座をしながらの懇願だ。
 
 結局、四人は、布団の上で車座になってトランプに興じた後、深夜十二時を回ったところで、セリナの「明日、朝早いんだから、もう消灯!」の言葉でお開きになった。

「ボクはもうちょっと遊びたい……」とリサはごねたが、セリナがジト目で、お手製の『旅のしおり』を差し出し、

「明日は、誰かさんの希望でモンキーセンターに行く予定にしていたよね? バスの本数が少ないから、朝早くなるけどいい? って、私何度も確認したよね?」

 という言葉で、しぶしぶ、リサも引き下がったという経緯もあった。

 そんな中、枕投げで乱れた布団をみんなで敷き直している最中、マリーがちょっと感慨深そうな声で言った。

「それにしても、ちょっと懐かしくなっちゃったな」
「なにが……?」

 リサが大きな欠伸をしながら答える。

「うん。こうして同じ場所に四人一緒に寝るのって、冒険のとき以来だなって」
「言われてみれば……!」

 リサが顔をパッと明るくさせると、セリナも嬉しそうに、

「私も同感だよ。冒険のときは、野宿が多くて、こんなふうにちゃんとした寝床で寝られることなんて、滅多になかったけど」
「今は、みんなそれぞれ別の家に住んでいるからねー」

 とマリー。

「そうだ! ボク、思いついた! これから定期的に、四人でお泊まり会しない? 旅行じゃなくても、誰かの家でもいいし! 日本で暮らしていくのって大変だし、冒険のときよりも、ボクたち四人の絆はもっともっと強くする必要があると思うんだ!」
「へえ、リサにしては、いいアイデアじゃん!」
「私も賛成だよ! それ、すっごくいい!」

 それから、セリナはミアの方を向いて尋ねる。

「ミアはどう思う?」 

 布団の上で、なにやら深刻な表情でスマホの画面を見つめていたミアが、

「……………………へ?」

 自分が呼ばれたことに気づいて、目を大きく見開き、驚いた表情で皆を見回すと、みんなが心配そうな表情でこちらを見ている。

 そして、セリナが膝立ちでミアのもとに近付いてきた。

「どうしたの、ミア? さっきから元気がないように見えるけど……」
「え!? う、ううん……! そんなこと無いよ……!」

 慌てて首を横に振るのにあわせて、湯上がりのほどかれた長い髪が横に揺れる。

「そうかなあ。卓球のときも、枕投げのときもなんか上の空だったような」

 セリナがそっとミアの額に手をあてて、「とりあえず、熱はなさそうだけど」と首を傾げる。

「湯あたりでもしたのかな?」

 と、両手をパチンと重ね合わせるリサ。

「あー、そーかも! 結構、みんなで長く入っていたもんね!」
「……だったら、誰かさんのせいじゃん」

 じろりとリサを睨み付けるマリー。

「ええと、大丈夫だよ。久しぶりにみんなと一緒で、はしゃぎ過ぎちゃっただけだと思う」

 てへへと頭を搔くミアに、皆は一様に戸惑った表情を浮かべて互いに顔を見合わせる。

「とにかく、今日はもうゆっくり休みましょう」
「そうだね」
「お休みー」
「おやすみなさい!」

 セリナの言葉で、皆は布団の中に潜り込み、部屋の灯りが消される。

 後は近くを流れる川のせせらぎと、夜の虫の鳴き声だけが静かに響いていた。
 
     *

 皆が寝静まったのを確認すると、ミアはそっと寝床を抜け出した。

 廊下に出て、静かに窓ガラスを開き、小さな身体を宙に躍らせる。

 続いて、壁に取り付けられた雨樋の金具に足を掛けながら、アサシンらしく、するすると三階建ての建物の屋上へと昇っていく。

 それから、辺りを一番良く見渡せる場所を見つけると、その場に腰を降ろした。

 まだ夏とはいえ、秋の気配が近付いている中では、肌を撫でる風は少し冷たい。

 海の方へ吹く穏やかな夜風が、彼女の頬を撫で、髪を揺らす。

 ミアは、あたりに目をこらす。旅館に面する形で日本庭園が整備されており、その後ろには鬱蒼とした森が広がっている。

「とりあえず、今のところ異常なし、と……」

 モンスターは、夜に出るという話だった。

 だったら、モンスターが現れたらすぐに自分が見つけて、倒してしまえばいい。そうすれば他のみんなを危険に晒すことは無くなる。

「今度こそ、ミアが、守らなくちゃいけない」

 気を引き締めて、周囲に神経を張り巡らせる。

 それから三十分ほどが経った頃。

 背後で、なにかが動く気配がした。

 懐に隠したダガーナイフに手を伸ばし、夜闇に紛れて動くそれに視線を向ける。

「あ、ミア、ここにいたんだ」
「……セリナ、ちゃん……?」

 屋根に登ってきたのは、姫川セリナ。

 月光に照らされた長い黒髪が艶やかに光り、陰影のついた目鼻立ちの整った顔を目にし、思わずミアは息を飲む。

 それから彼女は、戸惑いの色を隠せないミアのとなりに腰掛けると、

「はい、これ」

 そう言って、浴衣の中から取り出したお茶のペットボトルを差しだして来る。

「ありがとう。……って、これ温かいよ? 夏なのにどこに売ってたの?」
「んー、ちょっと湯煎してきた」

 そう言うと、セリナが自分のお茶を飲み、「あちち……」と、舌を出す。

 それから二人はしばらく無言になる。

 ミアは居心地の悪さを感じながら、周囲への警戒を怠らない。いや、むしろ、隣にセリナがいる以上、今まで以上に気を抜けない。

「ねえ、ミア。空、綺麗だね」
「……へ?」

 唐突なセリナの言葉に、ミアがきょとんとしてしまう。

「星の並びとか、アナストウェルとは全然違うけど、でも、日本の空も、綺麗さは全く変わらないね」

 セリナに合わせて空を見上げると、まるで無造作にばらまかれた宝石のように、空一面に星が瞬いていた。

「…………あ」

 ミアは思わず感嘆の声を漏らす。

 周囲に意識を向けすぎるあまり、全く空を見る余裕も無かった。

「うん……、綺麗……」
「ふふ」

 セリナが微笑み、お茶を傍らに置く。

 そして、一息つくと、ミアの顔を横から覗き込みながら尋ねた。

「それで、ミア、一体どうしたの? こんなところで。理由、教えてもらってもいいかな?」

 宝石のような瞳に見つめられたミアは思わず視線を逸らし、ぽつりと呟く。

「……見張りをしてたの」
「見張り?」
「うん。モンスターが出るって言うから。もし本当に出て来たら、すぐに倒せるようにって思って」

 少し戸惑ったように眉間を八の字に曲げるセリナ。

「でも、もしモンスターが本当に現れたとして……、私達四人で立ち向かえばいいんじゃないの?」

 ミアは顔を横に振る。

「ミアね、すごく嫌な予感がしたの。あの『熊』とかいうモンスター、アナストウェルでよく似たのと戦ったことがあるよね。六人がかりでも苦戦した強敵……」

 そこで彼女は一旦黙り込み、言葉を喉の奥底から絞り出すかのように続けた。

「それで……、そのとき……、囮役だったはずのミアが作戦に失敗しちゃって……。モンスターにやられる寸前、セリナちゃんが駆けつけてくれて……、ミアの盾になってくれて……、でも、代わりにセリナちゃんは……」

 セリナは、人差し指を顎に当て、不思議そうな顔で空を見上げる。

「んー。そう言われれば、そういうこともあったかなあ? あんまりよく覚えていないけど……」
「お、覚えていないの……!? そのとき、セリナちゃん、ミアの代わりに大けがを負っちゃって、血もたくさん、たくさん出て! 三日間ぐらい寝込んで……! それに……」

 ミアはさっき、温泉で目にした、セリナの背中の傷痕を思い出す。

「背中に……、大きな傷が残っちゃって……」

 思い出したのか、セリナの目が大きく見開かれる。

 沈黙が落ちる。

 そのとき、やや強い風が吹き、二人の髪が横に靡いた。セリナの顔に前髪がかかり、表情が隠される。

「あのとき……、ミアがもうちょっと強ければ、セリナちゃんが大けがをすることも無かったんだよ! ミアは、いつも、セリナちゃんに守られてばっかりで……」

 ミアが初めてセリナと出会ったときもそうだった。『処分』が決まり、生きる意味を見失ったミアを、身体を張って助けてくれたのもセリナだった。

 ややあって、セリナが顔にかかった前髪を右手で退け、

「そんなこと、気にしてたんだ」

 穏やかな口調でそう言うと、微笑みをミアに向ける。

「昔のことだし、ここはアナストウェルでもない。だから、ミアが気にすることじゃないよ。それに仲間を守ることはあたりまえのことだから」
「……でも!」
「冷えてきたし、そろそろ中に戻ろうよ。寝不足だと、明日、辛いし」

 セリナが立ち上がり、ミアの手を引っ張ろうとする。

 けれどミアは口を引き結び、そこから頑なに動こうとしない。

「ミア……?」

 そのときだった。

 ——うわああああああっ!!!

 日本庭園の方から、空気を切り裂くかのような男性の悲鳴が聞こえた。

 直後、ミアとセリナは、屋根から地上に飛び降りると、庭園に向かって駆け出す。

 ミアは走りながら、懐から取り出した一対のダガーナイフを両手に装備。

 そして、庭園にある大岩の陰に回り混むと、そこに背中をぴたりと貼り付け、岩陰から悲鳴の聞こえる方を伺う。

 そこには、夕方、彼女達に声をかけてきた旅館の男性が、這々の体でなにかから逃げ回っている姿があった。彼を追いかけているのは、

 ——高さ三メートル近くはあろうかという、黒い大きな獣。

「もしかしてあれが……」

 セリナの声に、ミアが道端で見かけた看板を思い出しながら、こくりと頷く。

「『熊』というモンスターだと思う」
「助けなきゃ!」

 そう言うなり岩陰から飛び出しかけたセリナの腕を、ミアが掴んで止める。

 不思議そうな顔をするセリナに、ミアは首を横に振り、

「今のセリナちゃんは丸腰。危ないよ」
「でも……!」
「ここはミアに任せて」

 言うなり、ミアは一人で岩陰から飛び出し、今にも男性の身体を捕らえようとしていた熊の手に向かって、ナイフを投擲する。

 ——ギャアア!

 命中。

 咆哮が響く中、ミアは熊の正面に立ちふさがって、挑発する。

「ミアが相手になるよ!」

 手負いの熊がミアの移動する方に向かって、動きを変える。

 その隙にセリナが、すっかり腰を抜かしてしまったおじさんを助け出す。

「おじさん、大丈夫?」
「あ……、ああ……」

 セリナはおじさんを負ぶって安全な場所まで運びながら、モンスターとバトルを繰り広げるミアの方に心配そうに視線を向ける。

 ミアは自身の身体の何倍もある獣を前にしても、一切、ひるむことは無い。岩や木の多い地形を利用した素早い動きで、相手を翻弄し、自然と庭園の奥——袋小路へと誘い込む。

 相手を見失った熊は、唸り声をあげながら四方を見回す。

「ミアは、ここだよっ!」

 声がしたのは頭上からだった。

 直後、ミアが熊の後頭部に飛び降り、その目にダガーナイフを突き立てる。

 ——ウォオオオオオオオオッ!!

 咆哮とともに、熊が苦悶の叫び声を上げ、敵を振り落とそうと頭を振り回す。

「わわっ!?」

 バランスを崩し、地面に向かって頭から落下する。体制を立て直すには時間が足りない。

 ぐっ、と目を瞑る。

 けれど、その衝撃はいつまで経ってもやってこなかった。

 代わりに、優しく、包み込むような声が上から降ってきた。

「ミア、大丈夫?」

 恐る恐る目を開けると、眼前には心配そうな顔で覗き込んでくるセリナの顔。

 セリナが、魔法で落下速度を緩めたミアの身体を受け止め、そのまま熊の前を走り抜けたのだ。

「……セリナちゃん……?」

 視界の端では、獲物を見失った熊が、のしのしと歩き回っている。

 ミアは目を瞬かせた後、慌てて、セリナの腕の中から飛び降りる。

「あ、危ないよっ! ここはミアがやるって……! セリナちゃんは下がっていて……!」

 一方でセリナが頬を指で搔きながら、苦笑する。

「ひどいなあ。これでも私、アナストウェルを救った勇者だよ? あれくらいのモンスターを相手にするの、わけないよ?」
「で、でもっ! セリナちゃん、聖剣アークフロッティ、日本に持って来てないよね!? モンスター相手に素手で戦ったりしたら、怪我しちゃうかも!」

「んー、怪我くらい別にどうってことないんだけど……」
「ダメッ!!」

 ミアの大きな声が響く。

 それから自分の声に驚いたのか、声のトーンを落とし、俯きがちに一言一言、区切るように言った。

「絶対に……、ダメなんだよ……。あのときみたいに、ミアのせいで、セリナちゃんが傷ついたりしたら、ミアは……」

 自然と、ミアのルビーのような瞳の端に、涙が溢れてくる。ややあって、そのうちの一粒が零れ、彼女の白い頬を伝い、顎から地面にぽたりと落ちる。

 セリナは少し驚いた顔をし、それから人差し指でミアの涙をそっと拭うと、

「大丈夫だよ。作戦は考えているから」
「作戦……?」
「うん」

 ちょうどそのとき、熊がセリナ達に気付いたらしく、のしのしとこちらに向かってくるのが見えた。

 それと同時に、温泉宿の方でも騒ぎに気付いた宿泊客がいるのか、いくつかの部屋に明かりが灯っていた。早く片を付けなければ。

 セリナは不敵な笑みを浮かべると、ミアの耳元に口を寄せ、作戦内容を伝えた。

 ミアは熊の前に身を躍らせると、挑発するかのように相対する。

 そして、熊がミアに向かってまっすぐ向かって来たところで、踵を返し、日本庭園の林の中に駆け込む。

 獣が、荒々しい息とともに、ミアを追いかけてくる。鋭い爪で、木々をなぎ倒し、庭園の石灯籠を破壊し、獲物を捕らえんと迫ってくる。

 ミアは木々の間を縦横無尽に駆け巡り、熊を翻弄する。

 あのときと同じ、『囮役』だ。

「でも……」

 彼女は真剣な眼差しで呟く。

「今回は違うよ……!」

 木々の間からヒグマが突進してくる。それを十分にひき付けたところで、ミアは膝をバネにして、頭上の太い木の枝に飛び乗る。

 勢い余ったヒグマはそのまま直進し、庭園の端、高さ五メートルほどの崖下の道路へと転落する。

 そして、そこへ、ヘッドライトを点けた、旅館の名前が側面に書かれた、大型のバンが突っ込んでくる。

 運転席でハンドルを握っているのは、セリナ。

 ヒグマと車がぶつかる激しい衝突音とともに、セリナが運転席から飛び出す。

 ——グォオオオッ!

 苦悶する咆哮を響かせながら、痛みに地面の上でのたうち回る。

 無論、車を一回ぶつけただけで、ヒグマが倒せる訳がない。

 ただ、弱った今なら、二人の力でなんとか捕獲することも出来る。

 ミアがセリナの傍に駆け寄ったそのとき、

 ——パン!

 発砲音と思しき音が、辺りに響き渡った。

 それと同時に、もがいていたヒグマが、ぴくりとも動かなくなる。

「えっ……?」
「これって……?」

 セリナとミアが呆気にとられていると、植木の陰から、洋服に着替えたリサとマリーが出て来た。

 リサの手には、筒の長い銃が握られている。

「えっへへへ。おじさんに借りた麻酔銃だよ! セリナやミアだけに、大変な思いはさせないよ!」
「おまわりさん、呼んでおいたから。間もなく来るってさ」

 マリーが腰に手をあてて、呆れたように言う。

「みんな……!」
「来てくれたんだ……!」

 セリナとミアの表情が明るくなる。

 マリーは二人の傍にしゃがみ込むと、林の中を駆け回ったときに出来たかすり傷に、ヒールの術をかけながら、眉間に皺を寄せたちょっと怒った表情で言う。

「全く、無茶ばかりするんだから。……特にミア! 無事だったから良かったものの、あたしたち結構心配したんだよ?」
「マリー、落ちついて」

 少し困ったように眉尻を下げたセリナが、落ち込んだ様子のミアにそっと両手を伸ばす。

「……ふえっ!?」

 そして、己の胸にミアの顔を埋めさせるかのように力強く掻き抱いた。

 セリナの心臓の鼓動の音が、直接、聞こえてくる。

「ミアは私達の大事な仲間。仲間は、お互いに助け合うから仲間なんだよ」

 セリナのミアの小さな身体を抱きしめる力が、一段と強くなる。

「だから……、ミア。もう一人きりで背負い込まないで欲しいな」
「…………うん…………」

 ミアは小さく頷くと、身体の力を抜き、甘えるようにセリナにもたれかかる。

 マリーとリサが互いの顔を見て、苦笑する。

 やがて、遠くからサイレンの音と、人々の駆けつける音が聞こえてきた。

  *

 翌朝は雲一つ無い晴天だった。

 昨夜の事件で寝不足気味の四人は、全員眠たそうな顔で、朝食を取っていた。

「ほら、ミア、寝ながら食べちゃだめだよ……」
「うーん……」

 そういうセリナもまた、眠たそうで、さっきからお箸を取り落としたり、お味噌汁にドレッシングを投入したりしている。

 朝食会場では、昨晩の熊出没の事件の話題で持ちきりだった。宿泊客の多くが騒ぎの音を聞いていたらしく、浴衣姿のおばさん達が、「熊が出たんですって」「あらやだ、怖いわねえ」などといった会話を繰り広げている。

 ただ、熊を退治したのが、セリナ達だということには、なっていない。

 事態がややこしくなることを防ぐために、旅館のおじさんに頼み込んで、全て、おじさんが対処したことにしてもらったのだ。敷地内に入ってきたヒグマに気付いたおじさんが、宿泊客の安全を守るために、自ら車で突っ込み、麻酔銃で眠らせた、と、そういう筋書きで。

 納豆を掻き混ぜながら、マリーが大きな欠伸をして一言。

「しかし、この眠気、どうしたものかなー? どこかで仮眠とらないと、もたなさそうなんだけど。とはいえ、セリナの作った『しおり』だと、今日、スケジュールぱんぱんだしなー」

 と、そこでリサが手を挙げる。

「はいはーい! ボクにいい考えがあるよ!」
「え? なに? またろくでもないアイデアでも出すわけ?」

 不審な表情のマリーに、リサは顔の前で人差し指を左右に揺らして見せ、

「もう一度、温泉に入ればいいんだよ! 朝風呂ってやつ! 絶対、目、覚めるから!」

 セリナが両手を重ね合わせて言う。

「確かに、それはいいかも。チェックアウトまでには時間があるからね」
「ミアもいいと思う!」

 目を覚ましたミアも諸手をあげて賛成。

「あー。べつにあたしも構わないけど……」

 マリーの賛同を得られたリサは、勢い良く立ち上がる。

「じゃあ、決定! 朝の温泉はまた格別。……そして、朝の肌触りもまた……。ぐへへへ……」

 なにか柔らかいものを掴むジェスチャーなのか、両手をわきわきさせるリサ。

「ん? 肌触り……?」

 不思議そうな顔をするセリナに、リサは慌てて手を左右に勢い良く振る。

「あーなんでもない、なんでもない!」
「…………」

 その様子を冷静に見ていたマリーは、おもむろに席を立つと、

「先に戻って、準備してくるから」

 どこか不敵な笑みをリサに向けて、朝食会場を後にした。

 結局、朝風呂に入ったのは、リサを除く、三人だけだった。

 何故か麻酔銃で熊を仕留めたのはリサだったということが、現場検証に来ていた警官達の耳に入り、事情聴取ということで彼女ひとりが呼び出されてしまったからだ。

 勿論、たれ込んだのはマリー。関係者の記憶操作が出来るわけだし、朝風呂の平和を守るためには、これくらいはよかろう、ということだ。

「久しぶりに僧侶らしい、清く正しい行いをしたと思うよ!」

 そう言って、湯船に浸かりながら上機嫌で鼻唄を歌うマリーに、ミアもセリナも思わず両手を合わせてしまったのだった。

                             おしまい。


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