在米日本人向けポータルサイトでの仕事が始まった

仕事探しで痛感したのはネットワークの大切さだ。公募していてもそこからインタビューまでたどり着けるのはほんの一握り。ものをいうのは”誰かの紹介”。これはどこの国でも共通事項だと思う。

ある時日本人の友達から、アメリカ在住の日本人向けのポータルサイト(ヤフーなどのように様々な情報や機能がまとめてあるトップページを持つサイト)でマーケのスタッフを探している、という情報をもらった。

さっそく彼女に紹介してもらってオフィスを訪ねた。

アップルのスティーブジョブズが住んでいたパロアルトというシリコンバレーの町にオフィスはあった。日本の出版社が投資しているというその会社はとても頭のよさそうな日本人社長が切り盛りして、数人のスタッフは全員日本人だった。なんとか気に入ってもらえたようで、採用が決まり、手狭になったオフィスを引っ越してからの初出勤ということになった。

新しいオフィスはパロアルトのオフィスの5倍くらいの広さだった。事業を拡大しているのが目に見えてわかった。現地のベンチャーキャピタリストだけではなくこの会社のように海外からの投資が入っているのだ。大学の教授が言っていたけど、ものすごい投資が行われ星の数ほどスタートアップがあっても結局生き残るのは一握り。ベンチャーというだけあって、本当に冒険、というよりギャンブルだ。20年たったいまシリコンバレーにオフィスのあるテクノロジー系の会社で働いているけれど、教授は正しかったと思う。あの巨大な投資のいったいどれくらいの金額が泡のように消えていったのだろうか。

この会社で運営していたポータルサイトは、アメリカ在住の日本人に向けての情報サイトだった。生活に便利な情報がすべて手に入り、日本人コミュニティーの役に立つサイトというコンセプトで言語はもちろんすべて日本語だ。

会社の収入源はポータルサイトに載せている広告収入。日本人向けにビジネスを展開している企業の広告をいかに伸ばすか、とサイトのビジターを増やすか、が私の使命だった。はっきり言ってウエブの運営しくみ、インターネットの知識は大学で習ったレベル。大学の授業の課題にあったので、HTMLで簡単なウエブサイトを作ることはできたけれど、そんなスキルは現場では使い物にならない。なので学ぶことは山積み。知らないことが山ほどあってとてもきつかった。マーケの仕事をしていたとはいっても、インターネットのマーケティングなんてやったことはなかったし、当時はマーケの仕事の中でもとても新しいジャンルだった。

全員日本人のスタッフは基本的にいい人が多く、これだけ日本人が密集している環境に入るのは久しぶりで楽しかった。留学初期に通った英語学校にも日本人生徒はいたけれど、一つのスペースの中で30人くらいがみな日本人という環境はアメリカ生活の中で経験したことがなく物珍しかった。こんなに日本人がまとめていたのかーという印象だ。

とても日本的だなと思ったのは、初出勤早々にお局系の女子にさっそく年齢を聞かれたこと。アメリカの会社ではよほど親しい同僚でもない限りは年齢を聞くなんてまずありえない。また、上司が部下に年齢を聞くのはご法度だ。パワハラのもとになりかねないので、マネージャー養成トレーニングでは年齢や家族構成など個人的なことには一切触れないように教えられる。

私が当時住んでいたサンフランシスコの対岸の町から会社のあるレッドウッドシティというシリコンバレーのはじっこまでは渋滞しなければ車で40分くらい。だが朝晩の通勤ラッシュはかなりの渋滞で、1時間からひどいときは1時間半の片道ドライブとなった。

今よりはすこしましだけれど、サンフランシスコベイエリアとシリコンバレーの交通渋滞は本当にひどい。電車やバスなど公共の交通機関もあることはあるが、日本のようにびしびしと電車が走っているわけではないし、駅から駅の乗り換えが徒歩圏内ではなくバスを使わなければいけなかった。おまけに駅からオフィスまでが絶対に徒歩では無理だしバスもなかった。ゆえに車の通勤以外の選択肢はなかった。パロアルトよりは近くなったけれど毎日のレッドウッドシティへ通勤することで精神と体力ともにかなり消耗した。

こうしてプラクティカルトレーニングでの仕事が本格的に始まった。2000年の春だった。


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