52話感想

果たしてどう言い表すべきか。目眩く……とは程遠い、本能に任せたあの行為を。

『据え膳食えりゃそれでいい』
『穴に入れて出すだけ』
──23話より

皮肉にも矢代の台詞そのものだ。情交でも情事でもなく、衝動だけに流された不本意な姦通。思いの丈を吐き出すでもなく、度々重ねる唇すら核心を塞ぐかのようだ。甘やかさは欠片もなく、もちろん幸福の余韻も曳かない。殺伐とした性交にむしろ後味の悪さだけが募り、苛立たしさなり不快感が先に立つ。

どこかに見落としはないか。誤解はないか。そう思い直し、多少の苦痛と共に読み返す。すると徐々に、壮絶な葛藤や悲哀、互いの抱く無念が浮かび上がった。

恐らく、前話の引きに期待し過ぎたのだろう。関係は未だ一進一退、薄氷を踏むような危うさなのだ。

矢代はもしかすると、不器用でも誠実な労り、そこから生まれる安らぎを求めたかも知れない。が、百目鬼は敢えて逆を突いた。と、ここでふと気づく。それこそがまさしく

──まるで俺だけが

ではないかと。行為の間、翻弄される矢代に対し百目鬼の表情は終始固く険しい。唯一揺らいだのは、切れ切れに名を呼ばれた時くらいだ。

一体何に焦り、憤っているのか。単なる嫉妬では片付かない、底知れぬ客気、狂気を感じる。手荒に見せた愛撫も、矢代を『満足』させるための演出か。否、むしろ性処理に乗じて、やる方ない虚しさをぶつけているようでもある。

『まだです』
『早いですね。まだ動いてもないのに』
『本当にセックスが好きなんですね』

これはいわゆる挑発だろう。矢継ぎ早に詰ることで、絆されそうになる自分を律したか。自傷を止めない矢代が、どうあっても許し難い。破落戸に嬲られるくらいなら、自身の手で汚す、罰する、壊す。だが一方では守りたい、大事にしたい。矛盾する激情が、百目鬼を追い詰める。ともすれば暴走しかねない自分を、辛うじて口づけで踏み止めたのかも知れない。

振り返るに、初めての交わりは幾重にも機微があり、それに共感した。事に及ぶ前の苦悩、混迷、恐怖、それらを遥かに凌ぐ渇望。結局想いは届かなくとも、その過程に琴線を震わす情緒があったからだ。ところが今回は一転、過去を塗り替えるかのような暗雲を感じてしまう。

怒涛の性行為を終え、矢代は恐らく初めて『意識を飛ばした』だろう。失神さながら眠りこけ、飛び起きてみれば相手がいない。これも四年前との対比だろうか。置いていかれた百目鬼が、今度は置いていく。実際には浴室にいただけだが、少なくとも後戯らしい後戯は描かれていない。

『山川が見つかったそうです』

倦怠を引き摺る矢代に、直ぐさま出発を促す。七原からの着信がどのタイミングかは不明だが、事の最中、もしくは直後のことなら、百目鬼だけが異様に冷静だったと言える。そんなところにも、心模様の温度差を感じてしまうのだ。

『満足しましたか?』

当初、この台詞には心底失望した。百目鬼はいつまで、冷酷な態度を強いられるのかと。前回我を忘れて逆上し、殴りかかった矢代に、並々ならぬ親心……いや、真摯な愛情を察した筈だ。あの瞬間、僅かでも糸口を掴めたかと思ったが、所詮絵空事だったか。

あくまで性処理に徹し、寄り添うどころか突き放す。百目鬼はいよいよ決別を図ろうと言うのか。前回、刺青もその証ではないかと述べたが、背景にあるのはやはり、自身の置かれた状況だろう。命に代えても矢代を守るなら、まずは危険から遠ざけねばならない。その一心から来る行動だとすれば、百目鬼の根底は少しも変わらない。ただ方法を変えただけだ。付き従うだけでは共倒れ、愚直さも時には仇となる。あの時、繋ぎ止めたいと願った情交は、今や恋慕を断ち切る手段になってしまったのか。

だとすれば、この物語に大団円はない。成就するのはどちらかが、または両方がこの世を去る時……そう悲観せざるを得ないほど、溝の深さをまざまざと突きつけられた気がしてならない。

失意の中、矢代は茫然とシャワーに打たれた。百目鬼にちらつく女の影、自分には手酷いが、女には──

ここにも鬱蒼としたコンプレックスが垣間見える。殻を破ろうとする時、それとは必ず向き合わねばならないだろう。あとは、戻るも進むも矢代次第だ。

最後に現れたコンタクトケースが、一縷の望みを繋いでくれるか。正直なところ、私はとっくに失くなったと思っていた。所属を変え、住まいを変え退路を断ったなら、未練の痕は残らず捨ててもおかしくない。が、予想は見事に外れた。

著者曰く、コンタクトケースについて矢代自身は『気づいてない』のだそうだ。

1)持ち主が分かっていない
2)片眼では視界に入らなかった
3)そもそも関心が向いていない

いずれにも解釈できるが、1)なら影山への執心は忘却の彼方、2)なら利き目(左目)視力低下の懸念、3)なら百目鬼の内面を無機物に語らせたかったか。

片恋の象徴、コンタクトケース。百目鬼とて今さら影山への蟠りはないだろうが、矢代の片恋は自身の片恋とも重なるのだ。その他愛ない道具、或いは刻んだ刺青を過酷な日々の拠り所としていたなら、何と孤独で不憫なことか。

刺青については、今回で絵柄が明らかになった。手首を結わかれた(かに見える)菩薩、または天女とおぼしき像だ。そこに込めた想い、コンタクトケースの経緯いきさつを知った時、矢代はどんな反応をし、今後にどう影響するだろう。反対に、矢代が自分にのみ欲情するのを知ったら百目鬼は……あまり好きな表現ではないが、これが “伏線回収” の始まりだとしたら、長く続く波乱劇も限りなく終焉に近づいている気がする。

【蛇足】
時間的余裕がなかったのだろうが、矢代は今回も煙草を口にしていない。緊迫した場面で、尚且つ百目鬼と対峙した時に限り、これまで一度も煙草を欲していないのだ。理由はいくつか思いつくが、それはまた機会があれば。どうやらその法則?は守られた……とだけ。