47話感想

──丸腰の機微

真っ先に感じたのは、矢代の強烈なコンプレックスだ。これまで内包してきた、或いは煙に巻いてきたトラウマが一気に噴き出した感がある。それでもなお自らを穢し自傷を重ねるのは、最後の悪足掻きか、それとも捨て鉢の成れの果てか。

機能不全は、数話前から薄々予測されていた。現実になってみると、これまで見逃していた幾つかの伏線に気づく。

『さすがに体はない』

『──三角さん、まだ勃ちます?』

“やはりやれなかったか……”

(以上36話より)

身体を使いたくても使えない。三角を挑発してみるも未遂、矢代の渇いた笑い、天羽の意味ありげな独白……。4年もの間、壮絶にもがいてきた様がまざまざと見て取れる。

百目鬼との “刹那(※)” で、機能は回復したかに思えた。一縷の望みを賭けて、矢代は再び井波に身体を差し出す。が、皮肉にもその行為は裏目に出た。

過去の体験が合意なき “レイプ” であったこと、そして百目鬼への恋着と喪失感を、残酷なまでに突きつけられたのだ。

“矢代にとって、百目鬼は唯一の綺麗な存在” (2020年 著者インタビューより)

“お前は綺麗だからインポんなったんだ……なのに俺が”(24話より)

根底に無意識の引け目があるだろうか。それを消すために痛みを求めるのだとしたら、虚勢を張るより更に惨めだ。

矢代はいよいよ、自身の成り立ちさえ受容出来なくなっているかも知れない。それが即ち自己卑下、果ては嘗てない絶望に繋がっているのではないか。

“レイプされて男なしではいられなくなったのに──”

何と空虚な独白か。“男なしで──” とは、精神を完全に切り離した性交だけを指すのであり、そうすることで辛うじて折り合いをつけていたに過ぎない。しかし唯一の武器さえ失くした今、義父の愚行を虐待レイプと認めざるを得なくなった。その結果が

“俺はもう本当に”

“本当にどうでもよくて”

なのだろう。叫びに乗せた一コマの微笑が物哀しい。この悲痛なSOSで思い起こすのは、著者の矢代評だ。

“喋ってばかりいるのに、結局は羽ばたいていかない人”(2020年 インタビューより)

喋るだけで踏み出せない。否、どうにもならないから喋るしかないのかも知れない。

“知らなければ 失くすこともなかった”

率直に言ってこれは独りよがりだろう。百目鬼は今でも追い続けており、諦めるつもりは微塵もいない。つまり、矢代が懸命に言い聞かせているだけなのだ。であれば、いっそ身一つで欲しいものに手を伸ばせばいい。それで幾らかでも肩の荷を降ろせるなら──。

(※矢代の心情を思う時、情事、強姦、凌辱、そのいずれも当てはまらない気がするため、苦し紛れにこう表現しました。)

──現実主義と理想主義

久しぶりのコンビ復活だ。4年ぶりの杉本を表すなら

“金は人を変える”

泡銭に味を占め、力を得たと意気がる。挙げ句の果てに肉親の生業を蔑み、極道になったのを境遇のせいだと嘯く。これには一片の共感も同情もない。比較対象が適切かどうかは別として、養父に感謝しながら働いて学費を返した天羽とは雲泥の差だ。そもそも大金を手に出来るのは  “会社” という箱、ひいては矢代の威光があってこそだろう。偶さか成果を上げただけの破落戸ならずものが何をか言わんや。以前は好感の持てる人物だっただけに、あの不実ぶりには少なからぬ衝撃を受けた。

ただ一方で、衰え知らずの洞察力には恐れ入る。全方向に絆されがちな七原と違い、杉本は一貫して冷静だ。顔も合わせていない百目鬼に不穏な背景を感じ取れるのも、常に俯瞰で物事を捉えているからだろう。思えば4年前もそうだった。熱情が暴走する百目鬼に放った叱責、

『自制しろ。じゃねぇとお前いつか……』(16話より)

この台詞は重い。あくまで私見だが、うっすらと百目鬼の死を予感させるからだ。長い間に杉本がどう立ち回り、何を悟ってきたのか、多少なりとも興味が湧く。

片や七原は、前述通り情が勝ってしまう分、どうしても見通しは甘くなる。矢代が手を引かない理由を金のためと信じて疑わず、ハイエナ状態で居心地が悪いとこぼす。もちろん利権は大前提としても、矢代の嗅覚はそれと違う一点に注がれている筈だ。本音を語らず、人を寄せ付けない上司だけに七原の苦労は尽きない。とは言え、杉本の放言をすかさず窘めるなど、心根の好さには毎回救われる思いがする。

──第ニのヒール

井波と矢代、加虐と被虐かと思いきやに非ず。どちらかと言えば “Slave” と “Master” に近い関係ではないか。

『お前にやるものなんか、俺の体で充分だろ』

醜悪な男に相応しいのは薄汚い身体。矢代の厭世そのものだが、井波は “文脈” を読めず、あろうことか正反対の解釈をした。滑稽な男だと思う反面、深層の一端を見透かしてもいるのが不思議だ。

『動機はどうでもいいが、暴力受けたがってんだろうが』

これが真理だとすれば、井波はせっせとご奉仕に励んでいることになる。口にするのも悍ましいが、これも一種の惚れた弱みか。あるじに忠実な下僕だと思えば、塵ほどの憐れみくらいは向けてやっても良さそうだ。

井波とは矢代、百目鬼どちらの地雷トラウマも握る男だが、元を正せば一介の公務員、今のような強請ゆすりたかりがいつまでも罷り通る筈はない。傲れる者久しからず、行く末に平田のような “因果応報” が待つか、社会的に抹殺されそうな兆しは僅かだが見える。ただ、後者であればますます危険因子と化すであろうし、この際心身共に葬り去るのが最善だろう。誰がその役目を負うかは別としても……。

──黙して語らず

つくづく損な男だ。袂を分かって以来、内面を一切明かさず冷酷非情な態度に徹する。尤も、そうするしかこの世界に残る術はなく、当人は腹を括っての所業だろう。

組の息がかかったクラブママとの密会。対面時の表情を見る限り、情を交わすというより何らかの利害関係人か協力者、更に言えば神谷公認の第三者がいる可能性もある。

女性の影を否定してきた(矢代を除く)ことについては、特に疑問も矛盾も感じない。あの頃は居なかったがその後に……というのはままあることだ。若しくは実際に恋人でも愛人でもないか、些か無慈悲だが百目鬼自身がそういった扱いをしていないかも知れない。ともあれ個人的には、単独で動くために必要な人脈だろうと予想する。

恐らく密会の後、百目鬼は再び矢代の前に現れた。鬼の形相で井波を見据え、

『行けよ』

と、たった一言で追い払う。厄介者が消えたところで口を切るが、この時、咎めを受ける矢代に微かな幼さが覗いた。

『了承してない』

目を逸らしつつ応える様は、さながら反抗期の子供だ。百目鬼はそれ以上責めず、当てでもあるかのように毅然と迫った。

『来てもらいます』

ふと先刻の女性が浮かぶ。直前に訪ねた際、何らかの頼み事をした可能性はないだろうか?

矢代の勘が正しければ、彼女との間に肉体関係がないとは言えない。だが相手もプロなら、それすら交渉の道具にはなり得るのだ。矢代のためなら泥水も啜るし、鬼も蛇にもなれる。それが百目鬼の百目鬼たる由縁だろう。

ただ一つ、彼女が綱川に囲われていた場合はどうか。よしんば事実なら、百目鬼の動向は筒抜けとなり泥沼化は免れない。但しこれは憶測というより単なる悲観だ。まずは杞憂が杞憂で終わることを祈りたい。

最後に、百目鬼は今でも矢代に対し悪意や邪念はないと確信する。

『井波に情報を流す気だったんですよね?』(46話より)

という問いかけを、

『俺の方がお前(井波)とやりたがってるって思ってる』

に変換してしまうあたり、矢代の尋常でない情緒不安を感じるが、言ってみればそれも被害妄想だろう。どちらが “やりたがってる” かではなく、百目鬼は単に肉体関係あるところ利害関係ありと踏んだだけだ。現に矢代は身体を介した取引を重ねてきており、百目鬼もそれは承知している。

溝の埋まる着地点が必ずしも大団円でなくても、互いが納得のいく結末であるようにと願っている。