51話感想

──抑圧

片や鬱積を、片や戦慄を押し込め、着いた先は百目鬼のねぐらだった。

『昔と同じで何もねぇな』

折に触れ懐古を口にする。たった三月みつきの記憶は、今も鮮烈に刻まれているのだ。過去に囚われ縋りたがるのは、百目鬼よりむしろ矢代の方かも知れない。

『寝に帰るだけですから』

対する百目鬼は、不気味なほど冷ややかだ。台詞こそ昔のままだが、その視線は切るように鋭い。あの秘めやかな交わりも、過去の自分も、今となっては口惜しい汚点でしかないのか。

生活臭のない部屋からは、諦めに似た気鬱が漂う。粗末なパイプベッド、見せかけのテーブル、閉め切りのカーテンは外界を忌避するかのようだ。そんなお仕着せの空間で息を殺し、色も慰みもない荒んだ日々を過ごしてきたのだろう。

──濁流

『俺が犯せば──』

言葉通り、性急にネクタイを解く。尚も手向かう矢代に、とうとう鬼相を露にした。

『今更』『形だけ拒むんですか』

決して嫉妬に狂ったのではない。百目鬼はただ、やり切れないのだと私は思う。

『無気力な情事に出かけて行き、倦怠を拾って帰ってくる』
──松本清張 真贋の森

かりそめの情事は、破滅しか生まない。なのに何故、明け透けに男を欲しがるのか。嬲られ続けて何の望みが叶うのか。

矢代が拒む理由はおおよそ明白なのだが、悲しいかな百目鬼はその葛藤を知り得ない。苛立ちの陰に、焦燥、切迫、悲愴、あらゆる負の感情が滲む。攻めあぐね、打開も出来ず、閉塞に喘ぐばかり。何とももどかしい二人である。

手荒にシャツを剥ぎ取り、胸の突起を噛む。凌辱に耐えながら、矢代は確かな激情を嗅ぎ取った。

“怒っていた。俺の知る限りで一番──”

苦悶とは裏腹に、身体は疼く。

“向けられた刃が、自分のせいだと思うだけで興奮した”

のか。だがそれでは、ひたすら自身を追い込む “黄金時代” と変わらない。指先が自ずと百目鬼の髪に触れたのは、脱却なり克服なり無意識の求愛であって欲しいのだ。

──決壊

揉み合ううち、矢代の腕が背に巻きつく。シャツを手繰られる気配に、百目鬼はピタリと動きを止めた。

『なんだよ』

『別に……』

手首を掴み、おずおずと引き離す。俄に曇る顔は、呵責か負い目か。

『いえ』ではなく『別に……』

聡い矢代に、ある直感が働いた。半信半疑シャツをたくし上げる。と、そこには──

一面に彫られたあでやかな刺青。這い回る厳つい龍、点々と咲くのは蓮の花だろうか。その紋様はいかにも任侠の風情だ。

矢代は逆上した。百目鬼を蹴り倒し、胸ぐらを掴み、髪を振り乱して頬を打つ。けじめとして指を落とすのとは訳が違う。代紋を背負しょってしまえば、二度と帰れないのだ。それは自身が最も恐れ、悲観した現実だった。

『立派な紋々入れてる一般人が今時どれだけいると思う?』(22話)

懇々と諭した言葉が虚しい。自身と同じ轍を踏ませたくなかった、或いは『簡単に死のうとする』男を憂いたからに違いないのだ。なのに──

親の心子知らず。渦巻く絶望、自責、失意は想像を絶する。もはや打算も妥協もない。あるのはただひとつ掛け値なしの献身、俗にいう愛の鞭だ。激昂する様に、不思議とそれらしきものが垣間見える。

“人に興味がない”

嘗て影山は矢代をそう評した。そんな男が、百目鬼の生き様には身を呈して介入する。物悲しくも一途な純潔だ。

あれほど牙を剥くのは、知る限りこれで二度目か。最初の狂気は四年前、百目鬼が銃弾に倒れた時だ。喪う恐怖と平田への憎悪が、矢代を突き動かした。興味どころか、それを遥かに超える執念あってのことだろう。逆に言えば百目鬼は唯一、矢代の琴線を脅かす存在に他ならない。

墨を入れたであろうことは、薄々予想出来た。とは言え、その内面を推し量るのは難しい。崖っぷちの日々を慮れば最後の寄る辺か願掛け、でなければ決別の証だったか。その代償として、消せない恋慕を絵柄に込めたのなら、百目鬼は人生全てをただ一人に賭けたことになる。だが結局それも不埒な行いでしかなく、矢代に重い十字架を負わせる結果となった。

もはや “演技” もここまでだ。百目鬼
はようやく理解しただろう。自分は “この人の何か” ではなく、ハッキリと乞われているのだと。咎めも頬の痛みも自分だけのもの。例え “子の心親知らず”……であっても、注がれる慈愛は肌で分かる。だからこそ、逆らわず罰を受けたのだ。そして矢代もまた、惚れた相手にここまで分別を失くすのは恐らく初めてだったのではないか。

百目鬼は矢代の自虐に憤り、矢代は百目鬼の無謀に憤る。時に怒りは人を解放するのかも知れない。もちろん、ぶつける相手あってこそだが……

やがて慟哭が鎮まると、互いの距離は急速に近づく。揺らがぬ意志で外道に堕ちた百目鬼と、未だ退路を断てない矢代。口づけだけで蟠りが消えるとは思わないが、ほんの刹那だけでも互いの像に触れられただろうか。

募る想いを舌に乗せて注ぎ込む。打ちひしがれつつも、矢代はそれに応えた。絡み合う二つの舌は、昔と何ら変わらない熱を帯びていた。