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もう「あやしい」とは言わせない。色眼鏡を外して甲斐荘楠音と出会う展覧会

甲斐荘楠音の全貌 京都国立近代美術館 2023年2月11日〜4月9日

チョット近代日本画のことを知ってる人にとって、甲斐荘(庄)楠音といえば、「デロリ」の人だった。大きな反響をよんだ「あやしい絵」展(2021)のメインビジュアルに採用されて強烈な印象を与えた、白塗りに、どすグロい影が塗り込められた「退廃的=あやしい」女の絵『横櫛』など「なにか女に特殊なコンプレックスでもあるのか?」と、私はうがった見方をしていたが、今回の展覧会で、目からウロコが落ちた。

斜にかまえず、正面から出会った甲斐荘その人の印象を、書き留めておきたい。

甲斐荘の代表作「横櫛」2作。この絵をプリントした絵葉書が飛ぶように売れたそうだ。決してツウ受けする「退廃的」「アブノーマル」な絵ではなく、当時の大衆の心をとらえた絵だった。

新たな甲斐荘との出会いをつくってくれた展覧会「甲斐荘楠音の全貌」は、初期から晩期までを紹介した1997年の大規模な展覧会に続くもの。「全貌」と銘打って、意気込んでいるのは画業だけでなく、甲斐荘その人、パーソナリティーにまで迫るという意欲のあらわれ。

展示入り口に、さまざまにポーズを取っている楠音青年の写真がたくさん掲出されてある。あらイケメン。だがそれよりも、大正時代にこれだけの写真が撮影されて、そして残されているということに注目したい。庶民ではこうはいかない。甲斐荘は、超がつく上流階級のご子息だった。

甲斐荘家は旗本の家系、先祖は楠木正成だといわれている。養子として入った父親は源氏の血を受け継いでいる。お母さんは御所に出入りしていて、御所伝来のおもちゃが家にあった。楠音少年は、そうした雅やかな女の子のおもちゃで遊び、女物の着物を着て過ごすこともあったそうだ。
「父親はそれを喜んでいた」と伝えられる。

甲斐荘イメージを歪めた「女装」という言葉の呪縛


甲斐荘とその「女装」写真。カメラマンを雇って扮装をこらすという、お金も時間もかかったであろう大掛かりなものだった。ブルジョアにしかできないことだ。


甲斐荘は、長じてからも「女装」に親しみ、女形に扮した自撮りをブロマイドにして周囲に配ったりしていたそうだ。

この「女装“癖“」をして、甲斐荘の作家としての評価に、耽美、アブノーマル、退廃、自己陶酔、という色濃いフィルターがかけられることになってしまった。近年、定着してしまった「あやしい」画家というイメージにも、この「女装“癖“」は強くかかわっている。

甲斐荘の「全貌」にせまるこの展覧会はこの女装写真にもフォーカスしている。「演じる人」という章をもうけ、好きな歌舞伎に没入していたという解説があり、控えめに「性的マイノリティー」という言葉が使われている。
本人による「マジョリティー=異性愛者ではない」という表明がない以上、こう呼ばわることが「アウティングにならないように」という最大限の配慮もこめられている。ようなのだが、その「配慮」とその根拠、現代の人権意識をあてはめることにたいして、どうにもモヤッときた。

この人を「マイノリティ」扱いすることが、果たして妥当なのかどうか?

そうでない、と「甲斐荘楠音をとおして女装の時代を考える」と題した記念講演で、井上章一先生は、しんねり、しかし断固として苦言を呈された。時代背景と風俗史の認識不足から、甲斐荘の女装やセクシュアリティの扱いは、大きく歪められた、と。

いわく「(大正、昭和期の)上方のブルジョア家庭では、男の子が女の姿にやつすことは普通にあったこと」。「甲斐荘のような家柄であれば、とくにひ弱な楠音のような子だったら、女の子の服を着て育てたということもあった」

楠音少年の「女装」を喜んで受け入れた父親は、現代であれば「セクシュアルマイノリティーに寛容な、またはジェンダー観にリベラルな親」と評価されるところだが、当時、そして甲斐荘家の階級で、それはそのまま当てはめてはいけない。

男も女も、女性美を愛した。そんな日本の伝統の最後の世代の人


さらに、甲斐荘が属した上流環境でなくても、男が女の服装に身をやつすことは、日本の伝統の中であこがれとともに評価されていた。ヤマトタケルや平清盛など、日本史の物語には、ヒーローが美しい女の姿となって敵を討つ名場面が描かれてきた。同性を愛することも、階級差なく頻繁にあったことだと思われる。

現在、異性愛者は多数者で「正常」「ストレート」とされている。そこから見下ろした上から目線「性的マイノリティー」という言葉にはある。

異性装、同性愛を「マイノリティ」とはっきり定義しなかった時代に、自分の美を追求、謳歌していた甲斐荘に、だからこの「マイノリティ」という言葉は、何重にも違和感がある。

平民という名の「下衆下郎」には想像もつかない境地がかつてあった、それが西欧化した価値観の中で失われたと考えるのが妥当だろう。
甲斐荘は、タブーのなかにドヤ顔で耽溺した、ピエール・モリニエのような露悪的な変態のお仲間ではないのだ。

当時その言葉はなかったが、おおらかに自分の世界を謳歌した甲斐荘に似つかわしいタームは「クイア」ではないかと思えてならない。

西洋画を意味と形で取り込んだ、前衛的な手法

さて、偏見に濁った目をすすいだところで、甲斐荘の作品に目をむける。
例のデロリである。問題の、あのドス黒い影はなんなのか?

ここは同時代の近代の日本画家研究が役に立つ。
当時、画家たちは陰影のある洋画のエッセンスを取り込むことに苦心していた。甲斐荘は西洋画を研究し、代表作の「横櫛」にはモナ・リザを参照したとも言われている。西洋画の寓意画にならったのか「絵にいろいろなものを盛り込みたい」とも考えた。『横櫛』の着物には芝居画に関連する模様が書き込まれていて、背景は中国画、とてんこもりだ。顔の影といい、盛り込みすぎといい、当時一般的だった「あっさりした美人画」とは、方向性が逆さまだ。「バタくさい」と思われもしたかもしれない。
個性的すぎた甲斐荘のこうした画風は「穢(きたな)い絵」と、そしられてもいる。

ボッチチェリの「春」との類似が指摘される《春》メトロポリタン美術館蔵

欲望の対象でないから、女の絵に徹底的な観察と要素を盛り込めた


今回の展示で面白いのが、下絵などの豊富な資料展示だ。そこで明らかになったことは、甲斐荘は女を描く際に、冷徹なほどの観察と綿密な下絵による構築をおこなっていた。そこへ、時代の最先端だった洋画的な陰影をつけるような実験を重ねていったのだ。

この徹底した女体へのリサーチと追求した「肌香(はだか)」と抽象的な官能美は、現実の女を欲望の対象としなかった甲斐荘が、美人画というフィールドで試みたクイア的ファンタジー「この世ならざる美」への挑戦だったのではないだろうか。

それは当時の男目線から見て、欲望をそそらない女の絵だったから「穢い」とうつったかもしれない。その批判に対して甲斐荘は「穢い絵で、綺麗な絵に勝たねばならない」という言葉を残している。
多数派の美意識が評価する「綺麗な絵」への対抗意識が、ここにはっきり見られる。ここに私は、甲斐荘のクイアとしての矜持を(勝手に)感じてしまう。

ファビュラスなセンス炸裂の映画コスチューム


甲斐荘は一時、画壇からはなれ、映画界で時代考証、風俗考証を担当した。今でいうアートディレクションで、コスチュームや髪型など総合的に助言や制作をしたそうだ。展示には甲斐荘がデザインした市川右太衛門主演「旗本退屈男」シリーズの衣装が並んでいる。

日本の古今の美しい意匠への愛と耽溺、それを最大限にリスペクトしながら大胆に引きまくり、遊びと非常識スレスレのバランスで、見る人を陶酔させる。破壊的としか言いようがない。

ここまできて、私の頭には「絵の上手いおネエさん」としての甲斐荘像がふくらんでいたこともあり、これが私には、ドラアグクイーンの衣装の突き抜け方、アガリ方、盛り方とおんなじに見えた。

これを着るのは退屈男ではなく、フレディ・マーキュリーでしょう
盛れないところに盛りまくる。ドラアグな美意識が感じられる
創造と破壊。これもドラアグ的美学の真骨頂

この「全貌」展で、正面から出会った甲斐荘は、私には華麗なるクイアアーティストに見えた。次回の甲斐荘展があるとしたら、その時、世間に「クイア」概念はもうちょっと浸透しているだろうか?そうだとしたら、きっと再び新しい「全貌」の扉が開けると思う。
クイア理論で編み直した「甲斐荘の全貌」展示が、是非ともみてみたい。

それは、またあと26年後のことか?
長生きしないと。

みうらじゅんとの共通した感覚も感じる、甲斐荘の「お気に入りアルバム」
好みのオトコ(三島由紀夫?)、グッとくる女性美、甲斐荘の視線がミラーボールのように乱反射する、すんばらしいスクラップブックも見どころ!


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