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プラモデルは最初から完成していて最初から未完成だった

50年前に発売されたプラモデルを組み立てました。1972年に発売されたタミヤの1/35 S.A.S.ジープ。砂漠を横断してドイツ軍の飛行場を攻撃するためにジープをカスタマイズしたヘビーデューティな姿が魅力で、当時の模型少年なら誰もが組み立てた往年の名作キットです。そして今でも模型店の店先に普通に並んでいる。

50年前に開発された商品が今でも普通に流通している。他にそんなものがあるだろうか。往年の名作キットとして古き時代を懐かしむマニアのためではなく、最新のキットにも肩を並べるクオリティを維持しながら今日も模型店の棚でモデラーを待ち伏せしているプラモデルという不思議。

リニューアルされたジープ(左:1997年発売)とS.A.S.ジープ(右:1972年発売)

昔のプラモデルはプラスチックを流し込む金型の彫刻技術が低く精度も甘くてダルダルのパーツを組むには隙間を埋めるパテが必要で、物足りないディーテルを補うための追加工作がモデラーの腕の見せ所。というのがオールドキットを語る常套句になっています。確かに昔はモデラーの心構えを問うようなキットもあった。しかしこのS.A.S.ジープにはそんなことは微塵のかけらもありません。試しにリニューアルされたジープのキットも組んでみたけどどっちが新しいのかよくわからない、というのが正直な感想。そのくらいにS.A.S.ジープの完成度は高い。

くらべてみれば新しいキットの方が「情報量」は多い。目の肥えたモデラーの批評にも耐える細かいディテールがある。初心者でも組みやすいようにサスペンションのパーツにさりげなく補強が入っている。しかしそれは時代のニーズに応えたプラモデルメーカーのサービスであって模型の完成度が高くなったということとは少し違う。

細かい話をすれば昔のキットには拙く見えるところもある。たとえば燃料缶のハンドルは本当は3本のところが2本しか再現されていない。当時の金型技術が低くてそうなった訳ではなく、小学生の小遣いでも買えるように金型製作のコストダウンのために工数を減らした結果だろう。フィギュアも今なら胴体と頭部は当然のごとく別々で金型を制作するけど、一体整形になってるのも部品数を増やさないためだ。部品数を減らせば表現できるディテールも限られてくる。しかしそこに稚拙さは全く感じられない。むしろこのクオリティを超えるフィギュアを新たに作ることの方が難しいと思わせる躍動感が刻まれている。50年経ってもプラモデルは少しも古くならない。プラスチックの金型技術はかなり早い時期から完成していたのかもしれない。

考えてみればプラモデルは金型に溶けたプラスチックを流し込んで固めただけの製品で、原理は古代の大仏を鋳造することと何も変わらない。長い歴史に培われた鋳造の技法と材料を現代的に置き換えて、欲しいパーツを金型に彫刻するための図面と正確に工作機械を動かすことのできる腕のいい職人がいればよかった。金型が図面の通りに正確に刻めればプラモデルのパーツは正確なモールドが再現できる。そうなのだ、プラモデルは最初から完成していたのだ。そしてプラモデルは最初から未完成だった。

プラモデルは誰にでも組めるようにセットされてる。それでいて誰が組んでも同じかというと、ひとつとして同じプラモデルにならないのが面白いところだと思う。説明書の通りに組んでもモデラーの技量の差で仕上がりに違いが生まれる。塗装となれば十人十色。実物と見比べてディテールに物足りないところがあれば改造したり、アフターパーツを組み込んで自分だけの表現を加えることもできる。

自分だけの表現と書いてみたけど、これを自己表現と誤解しないで欲しい。組み立て精度を上げることも塗装にこだわることもディテールアップに命を削ることも、全ては最初から完成されている部品を組み立てて、他の誰よりも実物に似ている模型を作るための工程だ。プラモデルに本物らしさを追求することの究極は自分という存在を透明にしていくことなのだろう。

しかし誰もその工程を正確にはトレースできない。どこかで必ず手ブレが生じて思い描いたプラモデルの完成にはたどり着かない。自分という存在が刻まれる場所がそこにある。

プラモデルは最初から完成していて、プラモデルは最初から未完成だった。

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