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時間の外側

年末になるとその年に買った模型の購入リストをつくるようにしています。何を買ったのか、いくら使ったのか。そのうち何個作ったのか。まだ完成してないものが、どのくらいあるのか。これまで買って完成してないキットの数を年間の平均制作ペースで割ると、人生の全てを模型制作に捧げても寿命が足りないことに気づいてしまって、どうしようもない思いに駆られます。

トーチカ

このどうしようもない事態に対して、考えられる合理的な解決策は、完成の見込みの立たないないキットは処分して優先順位の高いものから手をつけるようにすることです。流行りの言葉で言うなら、選択と集中。

キットを完成させる最良の方法は、説明書の通りに作ることでしょう。余計なことは考えずにランナーから切り離したパーツを接着してボックスアートを見て塗装してデカール貼ったら完成。最短の時間で最大の成果。作るキットの数を稼ぐならこれしかない。だけど千人斬りが趣味でない限りは数をこなすことにすぐ飽きてしまうでしょう。

そして余計なことを考え始めて完成のスピードは鈍ります。キットにディテールを加える、実物を参考にしながら色を塗る、使い込まれた質感が出るようにウェザリングをする。そんなことやらなくたってプラモデルは完成するのに、余計なことに時間を費やして完成が遠ざかります。

どうして余計なことをするのか。作れる数を減らしても、完成を捨てても、やりたいことが出てくるのか。経験値が上がるにつれて目の解像度が上がって、キットには無いものが見えてしまうからだと思う。

些細なディテールアップもリアルな塗装もウェザリングも、どれもキットになかったものを足していく作業です。自分の眼で見出したものを加えていく遊びというのでしょうか。プラスチックの塊に自分の言葉を足していく行為と言ってもいいかもしれない。つまり模型を作るというのは、手を動かしながら自分の言葉を楽しむ遊びということもできます。

その時間が楽しくなって、完成を夢見たはずの制作リストが時間の外に飛び出してしまうのに気がつかなくなる。

もし自分が死んだら、その予定は手帳にまだ書いてはないはずだけど、このキットの山はどうなるんだろうと思うことがときどきあります。カミさんより先に死んだら彼女はIV号戦車の製造工場にはKrupp、Vomag、Nibelungenの違いがあるのも知らないから、作りかけのキットは月曜日のゴミの日にまとめて捨ててしまうだろうし、完成している模型の戦車が歴史の上に実在した車両を再現してあったことにも気がつかないでしょう。

弥勒

自宅に溜め込んだガラクタを眺めてても同じことを思います。塗りの箪笥は実家の蔵にあったもの。古伊万里の青磁三足香炉(由来不明)の横は20代の頃に木切れに彫った弥勒仏。農具の歯車を蓮台に見立てて光背は若冲の果蔬涅槃図のポストカード。脇侍は材木座海岸で拾ったバイ貝残欠。

骨董の類も似た話があります。週末に各地の骨董市を渡り歩いて仲良くなった店主からいろいろと話を聞いて、目の解像度が上がると何に使うアテがある訳でもないのにもっといいものが欲しくなります。でも所詮は役立たずのガラクタ。海辺の貝殻も大枚叩いた骨董も自分の眼で言葉を重ねて楽しむ遊びに過ぎないから、目を離すと自分の言葉の全ては消えてしまいます。誰の目にもわかる優品は別としても、見出された美は言葉で残しておかないと儚く消えてしまうから、それで昔の茶人は詫びた茶碗に銘をつけて桐箱の蓋の裏に書付を残したりしたのでしょう。ブログを書いてる理由も同じです。

それで今日は何が言いたかったのか。「箱書」は大事です、という話。

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