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戦争のプラモデル

わずかでも力になれたらと思って、在日ウクライナ大使館に寄附をした。UNCHR(国連難民高等弁務官事務所)難民支援の募金もした。ウクライナの戦争が終わるとか元通りの日常に戻れるとか、今は何もわからないけど。

そしてウクライナ製のプラモデルも買った。それは戦争のプラモデル。

1/35スケールの兵士のフィギュアセットの箱を開けると、ウクライナが戦場になっている時にそんなもの作ってる場合かと言う心の声が聞こえます。だけど、いつも何の疑問もなく作っていた戦車や兵士のプラモデルを作ることに何の意味があったのかを今だから知りたいと思う。こんな時だけ戦争反対と叫ぶつもりはない。

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それは気になってたMiniArtのフィギュアセットで、投降する兵士が描かれています。兵隊のプラモデルというと、戦闘中の勇ましい姿や束の間の休息の笑顔、敵を待ち受ける緊張した姿を模型にしたものが一般的だけど、MiniArtのフィギュアには何故か投降した兵士のシーンが多い。ノルマンディで米兵に投降したドイツ少年兵。アルデンヌで逆襲するドイツ兵に捕まった米兵。そしてオランダで拘束された英軍の空挺部隊など、兵士が敵陣に投降するのは戦場で普通に起こる場面ではあるけど、Miniartはそのモチーフを繰り返し描いてます。

ミリタリーフィギュアにはその時代の流行があります。70年代のプラモデル黄金期には、戦場で駆ける兵士や機関銃を撃ちまくる兵士のフィギュアが多かった。米ソ冷戦を反映してか、兵士は敵に立ち向かうポーズをとる。銃で狙いをつけた兵士の先に敵兵の姿は(ジオラマのベースの外側にあるものとして)具体的には描かれていなかった。そして、ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終わると、フィギュアの兵士たちは戦う相手を失って戦場で休憩を始めます。子犬と戯れ、トランプをして食事の時間を待つようになります。

MiniArtの投降する兵士のフィギュアは、殴り合いの白兵戦なんていう生々しい戦闘を描かず、小さなジオラマベースの上に戦場を再現できるシーンとして選ばれたように思えます。敵と味方に別れて戦うこと、勝者と敗者、そこにいる人間たちの複雑な人間模様が交錯します。どちらか一方の視点からだけでなく、場面を変えて勝者と敗者を入れ替えて相対的に描いてるところにMiniArtが見ている世界があるのだろう。ソ連崩壊後のロシア、ウクライナ、東欧世界の心象が現れているように思います。

ウクライナのメーカーであるMiniArtがソ連軍に投降するドイツ兵や捕虜になったロシア兵のフィギュアを作ってないのは、かつて自分たちの村が戦場だった頃の記憶もまだ残っているのかもしれません。

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戦車のプラモデルを作っているから戦争が好きと言う訳ではないことを今さら説明する必要はないでしょう。歴史好きの人が戦国武将の逸話に熟知していたからと言って、その人が会社の同僚を調略したり出張先の旅館で上司を暗殺したいと考えないのと同じことだと思います。フィクションの世界と現実が交わることは、普通はありません。

キエフやハリコフは、80年前の戦争を模型にしたプラモデルを通して知った歴史上の場所です。しかし今、そこで戦争が行われています。恐ろしいことに前は共に戦った仲間が今度はウクライナを占領しようと戦車を送り込んでいるのです。キエフには僕がいつも買ってたプラモデルのメーカーがいくつもあります。戦争のプラモデルを通して知った場所に、プラモデルを作ってる人の住む街に爆弾が落ちています。

遠い国の戦争、対岸の火事を眺めるようには落ち着いていられない。フィクションが現実に置き換わってしまったら、世界が変わってしまったら、戦争のプラモデルを僕はもう作れない。もう誰も戦争に連れて行かないで。机の上のプラモデルを作ってる人たちの住む街や村を焼き払わないで欲しい。

こんな時だけ戦争反対と叫ぶつもりはない。

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