見出し画像

自分の人生を愛するということ。

一言でいえば、後悔。

時々思い出されては、胸が苦しくなることがあった。

「忘れたい、手放したい」と思えば思うほど
楔のように絡みついていく感覚。

自分を責めて、相手を責めて、
「なんであんなことをしてしまったのか」と
答えが出ない問いを繰り返す。

答えなんてないよ、と独りつぶやき
虚しさだけが心に残る。

人の美しさを信じたかった

自分の選択を否定する思考がループする。

人は簡単に自分を擁護し
都合よく解釈して
自分でも気づかないうちに結果的に人を騙していく。

そんなことはお互いさまだからと
何度も自分を納得させようとした。

言葉にするのが怖くて
見たくない感情を観るのがこわくて
なかったことにしようと心を押しつぶす。

隠そうとすればするほど
広がってこびりついていく感情。

しまいには、自分は何を感じていたのかも分からなくなる。

こんな感情を味わうくらいなら、
誰も信じたくない
なにも感じたくない
全部全部消してしまいたくなって
気づけばすべてを見ないように押し殺していた。


私の人生って、なんなのだろう。


なんのために生まれて、
なにを成し遂げたかったんだろう。

「人生に意味なんてないよ」と言われて
じゃあどんな意味をつければいいのか、
自由すぎることに恐怖を覚えた。

ただ日々を過ごすには
人生は長すぎる。

呼吸をすることも苦しいのに

生きることも、
死ぬことも、
どちらもできない瀬戸際で

ただそんなときに思うのは
純粋な人が呼吸できる世界であってほしい。

やさしい人が馬鹿をみるような
この世界がとてつもなく嫌だということ。

それを変えたくて
がむしゃらに突き進んでいっていたという
自分の想いが思い出される。

私の人生を、愛する

でももしも、
頑張って頑張って頑張った結果として
どうしようもなくて
辛くて醜い人生になったとしても

そのまま、愛することができるのか?

何度死んで生まれ変わっても
同じような人生を繰り返して
何度も繰り返してしまう、カルマだとしても

それでも、私の人生を愛するということ。
それが運命愛、
アモール・ファティ。

自分の抱えたカルマごとすべて、
愛してしまえ。

そんな、ニーチェのいう『運命愛』が
すとん、と腑に落ちた。


もし自分の人生を恨んでしまったら


自分の選択を後悔することは

私がそれまで感じてきた
自分の純粋な気持ちや
選択したときの優しい気持ちも
ぜんぶ否定することになってしまう。

私の人生が終わるときに
「騙されなくて良かった」
「傷つかなくてよかった」って
思えたらそれでいいの?


いや。

もし傷ついても
騙されたとしても
何も残らなかったとしても

私は人を信じる人生にしたい。

どんなことも笑って愛して受け入れられる人生にしたい。


人の心は本当に脆くて
どうしようもないけれど

その弱さやずるさもすべて含めて
それでも、愛していたい。

そう感じたときに
自分の人生を、選択を
そのまま愛することができた。

日本文明の運命愛


たった一人の人生においても
いろんな苦しみや葛藤があるけど

実は、日本の文明自体が
とてつもない運命を受け入れていたこと、知っていますか?

日本文明の決断と覚悟が核戦争抑止していたって
韓国人のNohJesu氏は語っていて

ぜひ一人でも多くの方に
このことを知っていてほしいな。

https://www.noh-jesu.com/1571


いろんなことがつながって
いろんな気づきがあふれたので
まとめてみました。

必要な人に届きますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?