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人目が気にならなくなるまでの3STEP

『みかりっていつも人に言われたこと気にして落ち込んで小さくなってウジウジしてたよね』

高校からの付き合いの長い友人にそう言われ、とても驚いた。

なぜかというと、
『人目を気にしてすぐ落ち込んじゃう人の気持ちを理解するのって難しいんだよね。私はあんまりそういうの、気にしないからさ~あはは』
と私が話した直後だったから。

『いやいや、過去のあんたもそうだったよ』

そんな風に言われたことで、衝撃が走ったのだ。

…そうだったっけ。
昔の感覚がぼんやりしていて、あまり思い出せない…
けどそうだった気がする。。。

なんでまた変化したのか、整理したくなったので、まとめてみた。

条件付けの関係性


そもそもの自分を思い出してみると、
友人の言うように、とにかく人の目を気にしていたように思う。

以前ブログに
私は「理想の自像」というものが明確にあって
そこからズレるのが怖い、幻滅されたくない、
と書いた。

このように社会人になってからは能力開発を頑張ってきたが、
そもそも、自分のもっと根本を見てみると、
とにかくとてもビクビクしていた。

相手に嫌われるのが怖くて、相手の顔色をうかがうことを当たり前にやっていた。

「相手はこんな人だろう」と予測を立てて、
相手が望むであろう反応を考え、実行する。

それを呼吸するようにオートでやっていたように思う。

でももちろん、いつでもその予測が当たるわけではないし、
常に相手の望む自分でいれるわけではない。

うまくいかないたびに落ち込み、できない自分を責めていた。


そもそも相手に合わせ続けることはとても難しい。

いつか自分の限界がきて爆発するか、
あえて距離を置いて相手のことが嫌いにならないようするか、
最終的にはそのどちらかの結果になる。


なので当然、深い関係性を築くことはとても難しかったし、
完全に自分の本音を話すことなどできなかった。

とにもかくにも怖かったのだ。
相手から嫌われたくなかったし、自分も相手を嫌いたくなかった。


なんでもいいからそのままの自分を受け入れて愛してくれ!!!

自分の本音は言えないけど、なんとか察して受け入れてくれ!!!


そんな身勝手なことを願い、でもそんなことは無理だとあきらめ、

まるで愛情には賞味期限のあるように感じ、
その不確実な関係性におびえていた。

「いったいいつまで好きでいてもらえるんだろう?」


幻滅されて見限られることが怖くて、自分の言いたいことも言えず、
不安でいっぱいだったのだ。

①無条件の愛が分かった


とにかく私は愛されていたかったのだが、

「愛されたい」と願うということは、
『私は愛されていない』と宣言しているようなもの。

愛されてない自分を憂いて、愛してくれと訴えていたのだ。


ダメな自分、出来てない自分、愛されていない自分。
それが嫌だから、できるようになりたい、愛される自分になりたい。

そんな×から〇になるための変化をずっとしてきた。


その変化の仕方は一生不足感がぬぐえないし、
自分が出来ていない箇所を永遠に探し続ける。

それは脳を持っている人間の初期設定が原因だったりするのだが。
(⇩脳のクセについてはすごく分かりやすいコチラをぜひ⇩)


そんな脳のクセを理解して、脳のフィルターを外してみたときに

大前提が愛しかないことがわかってしまった。

たったひとつの素材からわたしたちは構成されていて
始まりも終わりもひとつしかないことがわかること。


○○だから愛される、とか
条件づけられた愛じゃないものがあることを、心が経験しちゃったので
安心とゆとりが生まれた。

そうすると自分の中の不足感が一切なくなり、充足感からスタートすることができる。

満たされているところからスタートするから
「こうしなきゃダメだ」というような焦りや不安がなくなり
肩の力を抜いて物事に取り組めるようになったのだ。


×から〇の変化は卒業して
〇から◎の変化を作っていくことができた。


「好かれる、嫌われる」
「好きになる、嫌いになる」


そういうことが本当に気にならなくなって、
相手の反応に右往左往しなくなった。


もしなにか傷ついたりショックを受けたり、
逆に自分がイライラしたりムカついたりすることがあったとしても


なんで相手はそう思うのかな?
なんでこんなことを言ってきたりしたんだろう?

というように、
現象や反応につかまるのではなく、
相手の言葉や表情の裏側にある考えや感情、
もっと言えばアイデンティティに興味が湧くようになった。


言葉や表情というのは反射的に出ていることが多く、
相手が意図せず表現していることがほとんど。

そのことが分かって相手の条件反射の反応につかまれる必要がなくなった。


好きとか嫌いという感情は流動的だし、
簡単にひっくり返るものだから、そんなに重要ではないなあと思うようになり、

それを超越した愛というものを認識できるようになった。

②愛することが分かった


『人を信じたいけど、信じられないんです』

私は恩師にそう尋ねたことがある。

いつまでも続く関係性なんて無理だし
裏切ったり裏切られたりすることがこわかった。

そのとき『大丈夫だよ、心そのものになって自分の認識が変わればすべてが変わるから」と言われ、


そっか、私が変わればいいだけで、ちゃんと信じられるようになるんだ」
と、とても安心したのを今でも覚えている。


その言葉をもらって今ちょうど9年ほど月日が経って
こういうことか、と実感している。


それまでは「足りない、だから愛されたい」という状態で
受け身で、もらうことばかり考えていたのだと思う。


そこから、別にどっちでもよくなった。
相手から愛をもらえても、もらえなくても。

もちろんもらえたら嬉しいのだが、
それよりも、深い意味で人を愛せるようになったと思う。

なんというか、存在を超えた愛というか。
相手を愛するというより、その相手を構成している要素すべてが尊いなあ、愛おしいなあ、と思うような感覚。

…なんだか聖人君主のような発言になってしまうが、
別にそこまでたいそうなことじゃなくて。

それが、当たり前というか。
ただ、そのように認識できるようになった。
自然と相手の尊厳性を認めざるを得ないような感覚。

人間ってすごいんだよなあ。
愛しく思うしかない。

目の前の人が私のことを好きでも嫌いでも、あんまり関係ない。
そんなことは些末なこと。

そんな風に自然と思うようになっていて、
自分の認識が変わったことを実感している。

③関係性は自分で決められることが分かった

自分で自分の気持ちがわからなかった。
なにが自分の本音なのかもわからなかった。


自分がわからないから、相手のことなんてもっと分からなかったし
だから相手の反応がこわくて、いつもおびえていた。


それでもそんな自分を変えたくて、
なんとか人を愛してみたくて、
でもできなくて落ち込んで何度もあきらめて


それでも諦められなくてもがいてもがいてもがいてもがいて
自分の認識と向き合いながら気付けた。


そうか、言いたいことを言っても大丈夫だったのか。

自分が決めれば、関係性はどこまでも深められるなんて。


そんなことがスコンと腑に落ちて
自分の中にうごめいていた不安や恐れがどこかにいってしまった。

私が諦めなければ、どこまでも関係性は深められるし
絶対裏切らない関係性ができることが分かったから

とても安心して、人と向き合えるようになった。

無条件の関係性づくりゲーム



今でも身体がこわばり、不安がむくむく湧いてくるときも正直ある。

でも、なんというか
「愛しかなかったんだーー」

と認識すれば、自然と突破できてしまう。


心に余裕をもってチャレンジして、
結果にかかわらずそのチャレンジを楽しめる。


人と関わって、関係性を深めて、尊厳共同体をつくっていく。
本当に愛しいなあと思い合える関係性を深めていくこと。


そんな「共同体づくりゲーム」をすることが
本当に面白いよなあ、と思う今日この頃。


私を変えてしまった心感覚、ほんとすごい。

新しい心時代の生き方を案内するこちらの本、おススメ。
ぜひ興味が湧いた方、読んでみてください。

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