見出し画像

三河もん昔話:2 狢

小泉八雲の怪談の一つに「貉」という作品がある。
元は、日本に古くからある怪談、百物語の中のひとつが素材になっており、本来はカワウソが人を騙す、という流れだったものを、小泉八雲の妻セツの養母が「顔のないお化けなら貉」と語っていたため、小泉八雲の物語だと怪異は「貉」になったという。
お話自体は、有名なものなので――
昔、江戸に近い昔。東京は赤坂の紀伊国坂のあたりで、夜の暗闇の中、ひとり泣いている若い女性を見つけて心配した男が、彼女に声をかけたところ。その女の顔には、むいたゆで卵のように何もなく……恐怖のまま坂を駆け上って逃げた男が、そこに蕎麦屋の提灯を見つける。
慌ててその屋台に駆け込んだ男に、蕎麦屋の主人が声をかけるが、その蕎麦屋の主人の顔も……という流れの怪談だ。

昔は、そのような怪異が夜闇の中に居た、という昔ばなし。
これも、「廃城」と同じ、A先生から聞いたお話しだ。

「廃城」の、剣術道場の跡取り。青年Kの、師範となる前の若かりし頃。
時代は明治から大正に移った頃だったが、それでも道場には何人もの師範代、血気盛んな門下生たちが何人もいて活気にあふれていたという。

ある日のこと。
青年Kの居る道場と、別の剣術道場との交流仕合しあい の話が持ち上がった。仕合と言っても、真剣を使うわけでもなく。かといってどちらも竹刀は使わない流派だったので、仕合に使うのは木刀。
当時の、樫の木の木刀は今のものよりもはるかに大型で、長さこそ刀にあわせた三尺三寸だが、重さは一貫目ほどあるものだったという。
もちろん、そんなもので仕合で打ち合ったら怪我では済まない。なので試合と言っても向き合って型を見せ合うもので――だが、他流との仕合ということでKの道場の若者たちは色めきだって。
そして、当日は朝暗いうちからKを含む10人ほどの門下生を引き連れた師範代が、彼らを引き連れて十里ほどの道を出立、他流の道場に向かった。
その道場には、昼前に到着。もてなされた昼食を腹に詰め込んでからの仕合となり――
仕合、そして若者たちの交流が終わったのはもう夕刻を過ぎ、夜空に星がまたたく時刻となっていた。

他流の道場主や門下生たちは、Kたちに『夜道は用心が悪いで。うち泊まってきゃあ』と声をかけてくれていたが、血気盛んな若き剣士たちは。暗闇、物取り強盗、あやかし。何するものぞと――他流の皆に礼と別れを告げ、Kそして剣士たちと師範代は、借りた提灯の明かり一つだけを持って暗闇の帰路へとついた。
当時、もちろん街灯も何もない。行き交う車のヘッドライトもない。
民家が並ぶ街道筋から少し外れると……道は、自分の手のひらすらもみえない漆黒の闇になる。まだ夜空が晴れていれば、月明かりや星あかりが頼りになるが――空が曇っていたりすると、もう。
「みんな固まれ。K、貴様おまん は夜目が効く。提灯の前に出て行こまい」
師範代の言葉に、剣士たちは提灯の中の蝋燭の火、弱々しいが、漆黒の闇の中では心強い灯り。おおむね五間ほどを照らしてくれる提灯の明かりの中に青年たちは列を作り。
そして――その光芒の外、提灯の灯りで目が慣れないよう、青年Kは皆に、提灯に背を向ける形で先導、皆の先に立って進む。
こんな恐ろしいほどの暗闇、舗装されてない細い山道を進む彼らだったが。
血気盛んな若さ、そして皆が腰にいた木刀が。仲間たちに怯えたところなど見せられないという負けん気が、剣士たちを勇気づけ、そして軽口を叩かせていた。
仕合の話、他流の型の話。他の町の風景や、昼めしの麦飯と汁の味。
軽口を叩き、威勢を張って。
そうして……夜道を進む剣士たちが、道程の半分ほどに来た頃だった。

ざりっ。と。
青年Kの草鞋が土を噛んで。彼は暗闇の中で足を止めていた。
「――…………」
その彼の動きに、後続に何かを知らせるその停止に。提灯を持っていた師範代、そして若き剣士たちは揃って足を止めて、そして。
「どした、K」「しょんべんか」「なんぞ、なんぞ」
剣士たちの声に、Kは振り返りもせず。短く、静かに。だが。鋭く。
「――何ぞ、こっちゃう」
なに? 師範代、剣士たちの雰囲気が、気配が ざわ と殺気立った。
だが――彼らの目には、K以外には……暗闇しか見えていなかった。
このような夜道、提灯などの灯りなしでは前に進むことも出来ない。なのに。
「こっちゃ 来う……何ぞ」
Kは、前方の暗闇を見つめたまま。静かに。だが、その手は腰の木刀の柄にあった。
師範代も、剣士たちも。
じわっと、提灯の光芒の中で互いの距離を取り、万が一、剣を振ったときに互いに当てない距離を取る。剣士たちは、見えない『何か』に。正体のしれない相手に、目を見開く。
――だが。

「……。…… おなごやん」
その『何か』が。前方の暗闇から進んできた『それ』が、剣士たちの目に写ったとき。
剣士たちの誰かが、ぼそっと言う。
その言葉の通り――
前方の暗闇から進んできたのは。若い女性……だった。
「――…………」
最初に『それ』に気づいていたKは、何も言わず。ただ『それ』を注視し。

その若い女は。
古めかしい、島田髷の髪を結った。
柿色の木綿紬の、絣模様の着物。女物の雪駄に、白い足袋が見えるその若い女は、風呂敷包みを前に持って。
「…………」
その若い女は、提灯の光芒の中に固まる剣士たちの前を。
ものも言わず。歩みも変えず。スサスサと、雪駄の音だけをさせながら。
「――…………」
男たちも、何も言えず。
このような真っ暗な山道で、こんな他人の集団にあってしまったら普通は。
ホッとして声をかけるか、あるいは怯えるか。
なのに、その着物の若い女は――剣士たちなど、そこに居ないように。
提灯も持っていないその若い女は、スサスサと。道を開けたKたちの前を通り過ぎ、そして……Kたちが来た夜道の方へと……行ってしまった。
女の姿も、足音も。暗闇に消えた。

「……何や。あのおなごは――」
ふぅううう。と。誰かが、もしかしたら皆が息を吐くのと同時に、師範代が吐き捨てるように――内心の怯えめいた感情を、つばするような口調で言った。
その言葉に、剣士たちは。
正直、困惑どころか、怯えもあったのだろう。女の姿が消えた途端に、また彼らに軽口が戻り。
「なんやなんや。こんな夜道に。おなご独り、用心の悪い」
「提灯も持たんでよう。気味悪」
「なあなあ。ええおなごやったやん、今から追っかけて手籠めにせよか」
「あほう。殴っちゃろか。たあけたことを」
「しかしの。……だいじょうぶか、さっきのおなご。提灯、なくしたんとちゃうか」
剣士たちが、口々にいう中。
Kだけは、女の消えた暗闇の向こうを、ただ。じっと注視していた。
「うん。若い娘を、こんな夜道で放かっといたら。道場の沽券に関わるやん。ちょう、皆で行って――」
師範代の。
皆で来た道を戻って、さっきの若い女性に追いついたら。
そうしたら、提灯を又貸してあげるか、あるいは先ほどの街まで彼らが送る。という言葉に、剣士たちは賛同して――決まると、早かった。

それっ、とばかりに。皆が履いているはかま を、彼らの流派のやり方ではしょり、走行モードになった彼らは急ぎ足で着た道を戻る。
さっきの若い女性が通り過ぎてから、数分も経っていない。すぐに追いつける、すぐに提灯の光芒の中に、またあの柿色の着物が見える。
…………はずだった。
だが。

「…………。居らんやん。……おい」
いくら走っても。あの若い女性に追いつくどころか、その姿すら見えなかった。
おかしい。彼らの脚なら、またたくまに追いついているはずなのに――あの女の姿は、山道のどこにもなかった。
背後から追ってくる足音に怯えたとしても、山道の両側は野山。どこに崖があるかもわからぬ漆黒の闇。あの女性が道から外れることなど出来るわけもない。
それなのに……女の姿はどこにもなかった。
「なんや、なんやあ」「おなご、どこや」「……おい。まさか」
足を止めた剣士たちの言葉と、胸中に。再び、不安がにじみ始めた。
そこに――今度は、彼らの殿 しんがりを務めていた青年Kが。言った。
「……。あのおなご、どんな顔でしたかなあ」
「!?」
Kの言葉に、皆の不安の声が。ごくんっ、と。つばの飲まれる音とともに消えた。
「師範代。おれはあのおなごの顔……見たはずなのに。おぼえとらん、わからん」
Kの言葉に、剣士たちは顔を見合わせ。そして。

――誰も、あの女の顔を覚えていなかった。
服の、木綿の柿色の着物、絣の模様まで。雪駄と白い足袋も。前手に持った風呂敷包みも。古めかしい島田髷の結の髪も。そして「若い女だ」というところまで、みんな見ていたはずなのに。
――誰も。あの女がどんな顔だったか。覚えていなかった。
見ていたはずなのに。
もし。『顔のない女』だったのなら。夜道でそれを見、気づいた時点で彼らは恐怖しているか、あるいは剣でうちかかっていたはずだった。
なのに――『誰も女の顔を覚えていなかった』

「……わしら、化かされたんか」
師範代の言葉に。剣士たちの中にあった不安の種が、恐怖になって膨れてしまった。
さきほどの『もの』が。
彼らの剣でも、膂力でも如何ともし難い存在だったと気づいてしまった彼らは。
もう、駄目だった。剣士たちは、ただの、不安に揺れる十代の少年たちに戻されてしまっていた。

結局、その夜は――
その暗い山道を、自分たちの道場まで戻るという選択は彼らには出来なかった。
女を追ってきたせいで、他流の道場、そこに連なる街道指示の明かりが見えるあたりまでKたちは逃げるように走って。
結局、彼らは夜遅くに他流の道場の門をたたき、その夜の宿を乞うて――夜道でなにがあったかを話して、怪異と触れてしまった彼らは。
夜、夜具の中で目を閉じることすら恐ろしい心持ちのまま、眠れぬ夜を過ごしてから……翌朝、お天道様が高く昇ってから。
逃げるように、自分たちの道場へ戻ったということだった。

大正時代 今の愛知県の名古屋、千種あたりの昔ばなしだ。


もしよろしければサポートなどお願いいたします……!頂いたサポートは書けんときの起爆薬、牛丼やおにぎりにさせて頂き、奮起してお仕事を頑張る励みとさせて頂きます……!!