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三河もん昔話:1 廃城にて

A先生から聞いた話である。
先生は、私と同じ愛知県生まれ、名古屋を擁する尾張地方の出身で、ご実家は戦国時代から伝わる剣術流派の名門、その家の生まれだった。そんなA先生もいろいろあって、流派と家を継がずに東京に出て、ディレクション、編集のお仕事をなさっていて――私と、あるお仕事の縁で出会った。
私は先生から物書きのイロハから業界でのシノギ方、そして様々の武術の知識や、実践、訓練の方法、体躯の作り方まで。今まで私がこうして生きてこられた要素のかなりの部分を、私は先生から教わった。
先生からの教練、ご一緒させて頂いたお仕事の合間合間に、A先生は様々のことを私に話してくださった。武術の話、先生の修行時代、昔の台湾の思い出、そして先生も私も共通して好きな話題であった、オカルトのことなど――

これは、そんなA先生の。先生の父親、大正の時代に剣術の流派を継いだ人物、もはや戦国も武士の時代も100年以上昔に過ぎ去った時代に、剣を磨き、そして生きていた日本男児のおはなしだ。
ここでは、そのA先生の父親、若き日の剣士のことを青年Kとする。

青年Kは、生まれたときから剣術の家で育ち、厳しく鍛えられ、しつけられ。そして16歳のときに最初の免許皆伝の試験と仕合を道場で受け――見事、それに合格した。
……だが。その流派には、もう一つの免許皆伝のための試験試しがあった。
その「試し」は、新月の夜、月明かりもない漆黒の夜に行われる。場所は、道場から幾ばくか離れた場所にある、戦国時代からある城の廃墟。もはや石垣しか残っていない廃城で、行われる。
先達たちから、その「試し」について聞かされていた青年Kは、内心の怯えを隠しつつ。袴と道場着、わらじ履きに日本刀の本身、真剣を一振り、腰に挿して暗闇の中、明かりの提灯も持たずにその廃城へと独り、むかった。

夜闇の中。月明かりのない漆黒の夜空よりも、暗い、それは夜空に浮かぶ廃城の石垣。青年Kは、指定されていた廃城の一角、昔、往時の戦国には敵を迎え撃つ三の丸の曲輪――斜面に作られた平地のキルゾーン、石垣を背にしたその空き地。
指定された「試し」の場所に、独りで。漆黒の闇の中、たどりつき。
そして。
青年Kは、その場で――草履を履いたまま、腰を下ろす。剣術の居合における、即応。瞬時に剣を抜き放てる「正座」にて、暗闇の中。独り。
――これが、免許皆伝の最後の「試し」だった。
現代の人間なら、それだけで怯えて逃げだし、気が狂いそうなほどの漆黒の闇の中。剣を腰に差しただけで、明かりも持たずに、ただそこに居る。こと。
朝日が昇り、自分の手のひらの筋が見えるまでそこにいろ、というのが「試し」だった。

青年Kは、虫や獣の気配すらしないその闇の中で。目を開いていても、閉じているのと同じような闇の中でただ一人、座して。その「試し」を行っていた。じっとしていれば、何もなければ数刻で終わると、じきに朝日が登るはずだとは、わかっていた。が……
青年が、そこでそうしてから半刻ほど。

彼の左手は、掌は腰の剣の鍔に じわり、動く。
不安からではない。
何かを……「なにか」を感じた、闇の中にそれを感じた彼は。

青年Kの胃の腑のあたり、首筋のあたりに――違和感。気味の悪さ。予感とか、殺気とか、いろいろな呼び方をされるが……気配を、違和感。不意に、汚い雑巾を首筋に当てられたときのような……感覚。
(……なんぞ る)
座している青年Kの近くに、闇の中に。いつの間にか、「何か」が近づいてきていた。それは、どこから現れたのか――近づいてくる物音などは、しなかった。その「何か」は、彼が違和感に気づいたその時は……彼のすぐ近くに、居た。

 あはははは くすくす ふふふ ふふふ ははぁ

「それ」は。笑っていた。青年の間近で、暗闇の中で、明らかに青年のことを「視て」、クスクスと笑っていた。

 からころ かつ かつ かつ カラコロ カラ

「それ」は。座している青年の周囲を、歩いて。くるくる、まわっていた。笑い声に重なるその音は、履き物。女児が履く、ぽっくり下駄の音だった。

 あはははははははは

青年Kの額に、全身に、じわり悪寒がにじんだ。
こんな場所に、こんな時刻に、人が居るはずもない、しかも町出かけに履くぽっくり下駄を鳴らしているような女児が、いるはずもない。
彼は、漆黒の闇の中で目を見開くが――「それ」の姿は見えるはずもなく、だが。楽しそうに笑うその女児の笑い声と、ぽっくり下駄の足音だけが。彼から付かず離れず、彼の周囲を小児の遊びの「かごめかごめ」でもしているように、回っていた。

(……なんじゃあ、これはあ)

青年Kは、まだ16歳の彼は。だが、さすがに流派宗家の跡取り、さすがの胆力だった。あきらかに人間ではない、その「なにか」に纏われながら、座を崩さず。悲鳴も、声もあげずに、ただ――耐え、そしてその「何か」を闇の中で凝視する。

……見えないのに、「それ」の姿がわかる。それが、かえって恐ろしい。
「それ」は、朱い柄の着物を着て帯を締めた、かむろ頭の、黒髪の幼女だった。

(もののけか)

襲ってくるわけでも、惑わせに来るわけでもなく。ただ、笑いながら青年Kの周囲を回る女児の下駄の音。彼は、それに耐え。だが……恐怖は、次第に彼の胆に蓄積してゆく。
並の男なら、その場から逃げ出していただろう。
だが。「試し」でここに居る青年Kに、それは出来ない、選択肢にすら無い。
だが。恐怖は、彼の中に重く、冷たく、大きく。彼を彼でなくそうとしてゆく。

 あはははははは ポクリ カラコロ カツカツ うふふふふふぅ

――限界だった。
青年Kは。汗の滲んだ左手を、掌を腰の剣の鞘に、鍔に親指をかけ。
 ぱちり かすかな音を立てて。刀の、鯉口をきり。

 あははははは うふふふf

「それ」の足音、笑い声が。青年Kの正面に来た、その一瞬に。
えい !! とばかりに、彼は居合を放った。
正座からの瞬撃、彼の流派では必殺の一撃である。
当たれば、否、この一閃を避けられる、受けられる者など、居ない。
彼が居合を放ったら、その剣の軌道にあったものは――それが巻藁でも両断、人ならば脊髄まで断ち切られ、両断された体は、死血と臓腑を撒き散らしながらそこに倒れ臥している。何者も避けられない、死の刃。
――だが。

 あははは あはははははははははははははは

「それ」は。
居合を、斬撃の刃をもろに受けたはずだった。避けられたはずもなかった。
もののけであろうと小さな子供だ、あの居合を受ければ、体は魚の切り身のように両断されているはず。
――だが。
「それ」は、居合を放った残心の姿勢のままの青年Kの周囲を、何事もなかったように回り、笑っていた。彼が仕損じたはずはなかった、確実に「それ」を居合で捉えていたはずなのに、「それ」は、手応えすらなく……刃は、暗闇だけを無為に斬って。そして。

(…………!! ……いかん……これはいかん)

彼は、恐怖が限界に達しつつある暗闇の中で。剣を、鞘に戻して、また座り直す。
その彼の周囲で遊ぶ「それ」の気配と笑い、足音は先ほどより近くなったようにさえ感じる。
……「こいつ」には、剣は効かない。そういうもののけなのか。
彼は、恐怖に耐えながら、だが。胆の奥底では――

(……もしや、こいつは「これだけのもの」なのでは)
(……俺を、ひとを取って食ったり、祟ったりせぬのでは)
(……これは「試し」だ、俺が無為にこいつに食われるだけとか、無いわな)

これを耐えるのが「試し」なのか、きっとそうなのだなと。
彼は、そう思い、それを信じ。足音と笑い声の中でただ座して、耐えて。
そして数刻の後――夜明け。
廃城が、石垣と荒れ地が、周囲が朝ぼらけのほの暗さになってきた頃。
「それ」は、あの足音と笑い声は、いつの間にか青年の周囲から消え失せていた。
彼は、汗が消えない自分の掌を見、そして――道場へと、戻った。

そして青年Kは、免許皆伝となり宗家を継ぐこととなった。

後日談ではあるが――
青年Kはしばらくの後、自分の父親に、師匠にあの「試し」のことを聞き、
「あの廃城に、もののけが出るとわかっていて自分を行かせたのか」と訪ねてみたことがあるそうだが、師はそれに、何も答えなかったそうだ。

そして、蛇足で申し訳ないがもう一つの、後日談で――
青年Kが、道場の師範となり様々の若者に剣術を教えるようになった頃。次の、新しい師範代と目された門下生の一人が、免許皆伝の試験を、そしてあの「試し」を受けることとなった。
試験と仕合は難なくこなしたその門下生の男に、師範となっていた青年Kは。
迷ったが、「試し」の、あの「もののけ」のことは何も伝えず、男を送り出した。ソレは,話してしまったら試験にならぬ、というのと。
もしかしたら「あれ」は自分のときだけに出た怪異かもしれない、今夜は出ぬかもしれない、あの暗闇に耐えるだけでも十分だ、という心持ちからだった。
そして、あの夜の彼のように、門下生は真剣を腰に挿して廃城へ向かい――

だが。

翌朝になっても、昼時になっても、その男は道場に戻らなかった。
(……しまった)
青年Kは、師範代や門下生たちを連れて、昼明かりの中、あの廃城の曲輪へと向かった。
だが、そこには……男の姿も、人の姿も、無く。
血痕や、食われた残骸も、無く。
ただ、そこには――
曲輪の空き地の一角、崩れかけた石垣のふもとに。
その門下生の男の着ていた着物が。道場着と袴、下帯。足袋に草履までもが。
それらが、綺麗に脱がれ、畳まれて。その上に、鞘に収まった、男の剣が置かれて。
――男の姿は、どこにもなかった。
全裸で、どこかに行けるはずもなく。いくら探しても、その男の姿は見つからないまま。その後も、男の行方は杳として知れぬままになってしまったという。

大正時代 今の愛知県長久手のあたりの昔ばなしだ。


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