見出し画像

クレッセントハウス、レストランのおもてなしの心に通じる骨董品たち(前)

下記は、昭和50年に発行された「小さな蕾」2月号より引用しています。

石黒孝次郎が骨董品にかけた想いはそのまま、レストランクレッセント のおもてなしの空間につうじていることがわかります。置物、食器、人、か会話・・・全てが調和されてはじめて、ほんとうのおもてなしの空間が生まれる。そんな空間で生まれた人間関係は、その先もきっとかけがえのないものになる。

このnoteでは、レストランクレッセント の歴史を、古美術商としての側面と、レストランとしての側面とを両方まとめています。

一見別物とおもわれる2つが、祖父の手でひとつになっていき、高級料理店ながらも、どんな人が訪れても居心地の良さを感じる空間になっていたのだなと思います。今となっては古美術商としての側面を知る人は殆どいらっしゃいませんが、改めてその辺りをまとめさせていただくことで、そんな世界が繰り広げられていたんだな、と、知っていただくことが出来ましたら幸いです。

ーーーーーーーーーーーーーーー


日本の中の西洋骨董

Q 石黒さんはいつ頃から西洋古美術の世界に入りましたか?

石黒 学生の頃から日本のものでも海外のものでも好きでしたが、その頃はもちろんこの商売に入ろうとは思っていませんでした。戦前も海外へ少しは行ったことがありますが、私が商売を始めた昭和21年頃というと、外国から輸入することは全く不可能な状況でした。ですから、日本にあるものの中から選んで、良いものを集めるというやり方でした。戦前、つまり明治中期から昭和初期頃までに日本人が西洋から買ってきたものの中には、非常に面白いものがたくさんありました。

Q それらには時代的な傾向などがあったのでしょうか。

石黒 いわゆる古代美術といえるものはそうたくさんは来ていませんね。山中商会が輸入して展覧会をしたこと、2、3のフランス人が持ってきて展覧会をしたという程度でした。

Q すると、最初に手掛けられたのは、いわゆる近世のものですね。

石黒 そうです。陶器とか銀器とか家具の様なものですが、陶器は江戸時代から  していた古渡のオランダのものや18世紀頃の英国ガラスなどに相当面白いものがありました。それから大正、昭和に入っては、ドイツのマイセンだとか、英国のチェルシーとかボヘミアのガラス、英国の銀器、さっきお話しした様な家具。またきちんとした家具の他に、ルスティックというか、英国やフランスの民芸調の家具なんかが、焼け残って相当ありましたよ。

Q 当時のお客さんはどの様な方でしたか?

石黒 ほとんどアメリカ人です。売り手は日本人、買い手はアメリカ人しかいませんでしたから。その頃、アメリカ人の多くがタバコだのウイスキーだのと取り替えて、なかなか良いものを本国に持って帰っています。何しろ混乱期の中で物々交換の様な状態でしたから・・・・

Q 日本で西洋骨董店が成り立つ様になったのはそう昔ではないのですね。

石黒 いわゆる西洋骨董として、近世のものを扱っている店なら、戦前には東京にも3、4軒あったわけです。けれども、古代のものはほとんど扱っていなかった。おそらく山中商会が西洋古美術を中国のものなどと一緒に展覧したというくらいでしょう。

Q 石黒さんの今日のコレクションが出来上がるまでにはずいぶんご苦労がありましたでしょう?

石黒 いくぶん世の中が平静を取り戻し、無理すれば外国へ行ける様になりました。私が美術商として一番最初に出かけたのは1952年です。パリとロンドンに約半年は勉強の側、買ったものはプレゼント形式で友人宛に送ったりしたものです。その帰途、イランのテヘランに行きました。彼の地に行った最初の日本人美術商じゃないかと思っています。

画像1

Q 西洋骨董は楽しみにしたくても高価でありすぎる、という固定観念がある様ですが、初心者としてはどういうものから入れば良いのでしょうか。

石黒 高いって?中国や日本のものに比べると、家庭で使いこなせる程度の西洋骨董はむしろ安いものではないですか。ただ安いものでも日本ではやたらと高く売るからそう感じられるのでしょう。実際はロンドンなりパリなりで探そうと思えば面白く使えるものがずっと安く買えると思います。美術的価値が高くてしかも楽しいというものとは違って、使って楽しむから集めるなら、そんなにお金はかかりませんよ。

リプロダクションとオリジナル

Q 石黒さん自身のご趣味で、と言いますか、コレクションは近世のものの中でもかなり古いものや古代のものをお集めですが、それについてのお考えは?

石黒 18世紀のオリジナルなものでも、今の我々の感覚で美しいと思えるものがあるわけです。だから、現代は、現代の感覚で美しいと思うものを集めたいということになるのが自然でしょう。

18世紀のオリジナルなものを集めたいと思ってもなかなか手に入りません。そこで忠実なコピーを探したいと思う様になります。オリジナルなものから50年、100年後になると、非常に忠実なコピーができてきますが、この中で感覚の良いものは、これも大いに価値があると思うのです。けれども注意したいのは、コピーの作り手が機械ではなく、職人の手になったものに限ります。

例えば、ルイ14世風の家具を作るとします。ルイ時代に作ったものは良いとして、150年後の今世紀の初めに作られたルイ風の家具でも、木工職人が忠実にオリジナルの図面によって彫刻をし、金工の職人は一生懸命に金具を作り、たがねをあて、渡金をして、それに取り付けて仕上げをし、ルイ14世風のリプロダクションとして売り出したもの、これは非常に価値があると思うんです。

ところが1950年代になると、木工は材料を圧搾したものでスポッとできて、金具もポンポン打ち抜きで出来てしまいます。流れ作業で渡金して、どんどん金具にくっつけて1日何台もの家具が量産されてます。そんなものは醜悪であって、ちっとも美しくはありません。

画像2

画像3

(写真は、南欧とアーリーアメリカンの雰囲気がみごとに調和しているクレッセントハウス地下のグロットバーカウンターの対面にたくみに配された古棚。)

Q やはり、そこには作る人の心なり、魂がこもらないからですね。

石黒 だから、何というか、うんと古いものと、うんと新しいものが美しいと思うのです。今の私が感じるのは。新しいものというのは、タイプライターとか飛行機など、機能性から生まれたものだけれど美しい。家具でもマスプロダクションでも作る様に設計されデザインされたものは美しいし、アクリルやガラス板などの昔なかった新しい素材でしっかり造形したものは美しいと思います。結局は今世紀に考えられたオリジナルなものは美しいといえるわけです。


タイル1枚、スプーン1本

Q 西洋人と日本人の古美術品に対する考え方、接し方ですが、西洋人は即生活に結び付けてものを見ますし、古き良き時代のいいものがあるという感覚で気軽に骨董店へ入っていきますね。ところが日本人が西洋骨董に対する場合に非常にかしこまった感じになってしまうのは感覚的な違いなのでしょうか?

石黒 生活様式の違いを考えればいいだけのことです。日本人が和室で、そばちょこでお茶を飲むというのと同じ様に。例えば、外国人が自分の家をたてた場合、家具などを1度にセットで買うということはまずないでしょう。気に入った椅子を1つ、そしてその椅子にマッチする家具を1つ、また1つとゆっくり揃えていきます。だから自分の部屋を完成するのに5年かかり、10年かかるわけで、楽しみながらそうします。1ときに何から何まで集めようと思うからおかしなことになるんじゃないでしょうか。

新しい感覚の中に古いもので統一されているという空間が好きな人もいるでしょう。それは人様々で、個人の趣味と感覚であっていいと思います。

画像4

(写真は、翔は初期に木村さんという職人が作ったリプロダクション。クレッセントハウスにて)

Q 日本の美意識だと、骨董そのものが主体で、生活の中に取り入れるというものではなくて、床の間におくとか、切手やコインを集める感覚の域を出ていない様です。西洋骨董の場合は私の様な若いものが偏った先入観なしに、素直に入っていける気がします。床の間に置くような感覚じゃなしに・・・

石黒 そうです。お客さんにちょっといいナイフ、フォークでお菓子を食べてもらおうという段階から始められます。もっといいお客さんには、いいティーカップで、いい銀器でもてなしてあげようということになります。それは、日本人のいわゆる茶道の精神につながるものだと私は思います。1枚のタイルをインテリアに使い、スプーン1本からティーを考える。とにかく、自分も楽しいし、お客さんも楽しめるようなものを集める。お茶の心で集めれば良いと思います。そのうちの主人、主婦の趣味で、神経の行き届いたインテリアなり食器の使い方なりがされているのは快い雰囲気と言えるでしょう。

Q 和風の場合に、伊万里とか赤絵だとかを皿立てに掛けて簡素に並べますね。これはうまく空間に生かしていると思うのですが、最近デパート等で、額に入レタリ、ビロードの箱に入れたまま飾らせる、というやり方には抵抗がありますね。

石黒 若い人がマンションの3部屋か4部屋のうちに住むとして、スチールパイプの椅子の似合う部屋もあるでしょう。その椅子のバックの壁に18世紀の皿が似合うかもしれないし、ペルシアのタイルが似合うところもあるでしょう。また古風な破墨山水が似合うところがあっていい。それで良いと言いたいのです。その家に住む人の趣味によって、いろんなコーナーがある方が楽しいんじゃないでしょうか。趣味にしても西洋のものだけで統一するとか、日本のもの、あるいは中国のものだけで統一するとかいうものではないと思います。美術品のコレクターにしても、中国陶器だけとか、印象派のかいが岳といった「だけのコレクター」が多すぎます。おかしいことですね。

Q 全体的にその人の生活、人間性、あるいは味わいがコレクションの態度にも出てくるわけですね。

石黒 そうでしょう?例えば、何千万円の絵をたくさん持っている方の応接間に、グロテスクな七宝の壺なんかが置いてあるというふうな不思議なことが日本ではよくあること。印象派の絵にしても、こけし人形を3百以上持ってますという集め方や、「ふくろう」ならピンからキリまで集めていますということと同じになって、美術品のコレクターとは縁が遠くなります。

Q 石黒さんが30年も古美術の商売をなさってこられて、お客様との津あがりもずいぶん広い範囲になられたでしょうね。若い方はいらっしゃいますか?

石黒 若い方は勉強しにこられます。私自身はこの道を歩いて30年くらいになりますが、西洋のもので自分でも納得のいくようないい商売をしようということは、なかなか難しいことです。アートディーラーには2種類のタイプがあります。1つは、ものをどんどん集めて行って3ヶ月後にどんどん売っていくタイプ。1つは気に入ったものを、気に入った相手に気に入った値段でなければ売らないという商売、つまり、じっと待つタイプです。私の場合は後者でして、もはや商売人じゃなくなっちゃった(笑)。おこがましく言えば、ディーラーは常にお客様の2、3歩先を歩いていくべきもので、お客様を啓発してものを売っていかなければならないと思います。それがディーラーであり、研究者であるという風になりますと、専門の関係のものに対しては知識も目もすすんできて、お客様より5歩も10歩も20歩も先を歩くようになってしまいます。仮にお客様がペルシアの13世紀のものに執着されているときに、「これは非常に面白いものですよ」と先史時代の土偶をお見せしても、その方はピンとこない。そのお客様がたどり着かれる時点が来るまでは、ゆっくりとお待ちするしかないと思います。ですから、私にとって一番大きい喜びは、自分でこれはこういう意味で面白い、と思って買ってきて、見せた方が「うむ、非常におもしろいものだね」と、共感を持って会話できる時です。

Q そこまで到達することは至難ですが、初歩の段階の者にご助言ください。

石黒 やはり、いい店で、つまり目筋の良い主人のいるところで買うことですね。そういう店はいいソースからものを入れています。いくつものいいフィルターを通して、選ぶことが出来るでしょう。このことは日本の古美術でも、中国古美術でも共通して言えるのではないでしょうか。信頼できる「主人の目」は、「その店の目」となって、いい友人、知巳が出来ていき、その人々の目もまた優れたフィルターとなるものです。

カップやスプーンという程度のものなら、ノミの市などに出かけて、自分の目で掘り出したり、値切って買う喜びもいいものですが、古代美術品となると、いい店を通して買うのが本筋ではないかと私は思います。

画像5

※オールドクレッセント 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?