最愛の妻・豊子に捧げたコレクション 〜Mr. & Mrs ISHIGURO Collection 〜 古美術商として始まったクレッセントハウス

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母がまとめた記事をこちらに記載します。

こちらは、祖父が寄付を希望した中近東文化センターより出版されている「古く美しきもの」から、館の責任者の方に承諾を得て引用させていただいています。

レストランクレッセントは、もとは、祖父が生涯情熱をかけた古美術商としてのギャラリーでスタート致しました。クレッセントハウスは、レストラン、ギャラリー、チャペル・・・全ての場が一つとなり融合しあって、初めて輝きをもつ館でした。

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祖父にとって、クレッセントハウス設立を見ずして若くに亡くなった祖母・豊子さんは、あらゆる意味で活力を与えてくれる大きな存在だったと思います。

古美術品のコレクションについても、祖母と夜な夜な楽しく話をしていたことで、さらに良いものを集めて、これまでにないmuseeを作り出そうと、夢見ていたことと思います。

これほどまでに大切に思える存在がいたなら、どんな困難でも乗り越えられる。どんな世の中でも幸せでいられる。一連のエピソードは全て、祖父と祖母との愛の物語へとつながってゆきます。


母・石黒史子による思い出

「父、石黒孝次郎が、芝公園に”三日月”を設立したのは、1947年の事でした。終戦直後の資材不足の折、沢山の友人の方々のご協力を得て、苦労して建てた店でしたが、英国の田舎風で、当時としては一寸洒落た建物でした。店内にはヨーロッパの輝夜、マイセンの人形、銀器、食器など、綺麗な物が沢山並んでいて、幼稚園の私は店を歩き回るのがとてもたのしかったものでした。

1952年秋、父は初めてのヨーロッパ旅行に旅立ちました。これ以来亡くなる迄に、50回あまりの海外旅行をしましたが、その克明な旅行記には、彼の美術品への直向きな情熱が伺われます。例えば、美術館等で見たもの、感激したものはすぐにスケッチをし、横に気がついた事や感想等を書き付けます。こうする事により物をより集中して見られるのだと、よく言っておりました。事実、何十年も前に見たものを、「あの時こんな物があったんだよ。」とさらさら描いて見せてくれたりして、美術品に対する記憶力には度々驚かされたものです。


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イタリア、フランス、イギリス、スペイン等を、半年あまり歩き廻った第一回目の旅行記の中に、次の様な文章を見つけました。

『今後どうしても日本は国家の手で、西洋美術、工芸品の ”Art and Decorative Museum" を作らなければならない。そしてこの美術館は予算を持って良いものが買える様にならなければならない。帰国後に大運動を起こすこと。』

この第一回目の旅行以来、父の興味はより古いものへと移って行ったようです。そして、古美術品のMuseumを作るという使命感は年を経るごとに高まり、ガラスや土器の破片などの参考品を少しづつ集める様になりました。母はそんな父の最大の理解者で、古美術品を前に、夜更けまで楽しそうに話し合っている二人の姿は、今でも私の脳裏にはっきりと焼きついております。

1964年春、父の長年の念願だった、母と一緒の海外旅行が実現されました。ベルギーの知人宅にホームステイをしていた私も合流し、ヨーロッパ各地から、ギリシャ、エジプト、イラン等、父がそれまで母に話して聞かせるだけだった国々を、腕を組みながら説明して歩く、父の嬉しそうな顔・・・。障生涯和服しか着なかった母が、後にも先にも一度だけズボン姿でロバに載ったのは、エーゲ海の島での事でした。

この旅行から2年後、あまりにも早い突然の母の他界が父にとってどんなにショックだったか、お察しいただけると思います。

手足を捥がれ、心も空になっていた父をもう一度奮い起たせたのは、やはり母への思いだったのでしょう。その頃、二番目の仕事として軌道に乗ってきたレストラン・クレッセントと、美術尚三日月が一緒に使用出来る建物を作ろう。その最上階に、今まで蒐集してきた美術品を展示出来る部屋を作ろう。そして小さくても充実した資料館として、みなさんに楽しんでいただきたい・・・。

1968年に完成したクレッセントハウスは、父が亡き母に捧げたモニュメントなのです。そして、実際には、それから5年後に、試行錯誤の未完成したコレクションルームに、父は母への思いを込めて、Mr.&Mrs ISHIGURO Collection と名付けました。

昨年3月、父は最愛の母の元へと旅立ちました。生前からの父の願いを、三笠宮祟仁殿下をはじめ、諸先生方が快く受け入れてくださり、中近東文化センターに父のコレクションを、四散する事なく引き取っていただけました事は、私共残された者にとり、この上ない喜びでございます。コレクションをみなさんに見ていただきながらお話をする時が一番幸せだった父が、今迄よりもずっと多くの方達にご覧いただけるのを天国から、どんなに喜んでいる事でしょう。

この紙面をお借りして、三笠宮殿下のお力添えに再度お礼申し上げますと同時に、〈古く美しきもの 〜石黒孝次郎遺贈品展〜>にあたり、お骨折りくださいました多くの方々に感謝申し上げる次第でございます。」

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レストランクレッセントの閉店を聞いて、いろいろな想いを巡らせ、建物の素晴らしさや、そこで得た経験等を一つ、二つ書くにとどめようと思っていました。

けれども、レストランにとどまらない建物の本来の機能や素晴らしさと、そこで祖父が残して行ったものを思えば、形あるものがなくなって行ったとしても、万人に共通しうる祖父の情熱を風化させないこと、古美術品の普遍的な美が示す素晴らしい点等をあらゆる形で若い世代に伝えていけるようにするのは、私の使命なのかもしれないと思いました。

何回かに分けてまとめて行きますので、ご興味をお持ちいただける様でしたら、お付き合いいただけますと幸いです。

そして、大切なひとと肩を並べて、自分の夢を語り、共に成し遂げたかったことを、一つの物語として、心の片隅に残る様な内容になりましたら幸いです。

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石黒孝次郎

1916年 3月28日、父・石黒忠篤、母充子の次男として生まれる。

1941年 京都帝国大学法学部を卒業。

1942年〜1946年三井物産株式会社入退社

1947年 株式会社三日月(古美術商)創立。

1958年 株式会社クレッセント(レストラン)設立。

1959年 京都大学イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査に参加

1971年株式会社東京美術倶楽部取締役に就任

1916年財団法人中近東文化センター評議員に就任

1976年 日本オリエント博物館理事に就任、東京大学西アジア学術調査に参加

1977年古代オリエント学会理事に就任

1979年 関東ラグビー・フットボール協会会長に就任

1981年 紺綬褒章受章

1987年 財団法人中近東文化センター監事に就任

1992年 3月、死去

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台北の祖父・孝次郎と、祖母・豊子

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