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身体を生きる 「純粋経験」

身体と心についていろいろ考えていること 

ハーネスを付けて 
ヨセミテの千メートルの岩に 
クライミングしたとき
意識するとかしないとかを
超えていた。
1センチあるかないかの
手がかり 足がかり。
落下したくない。 
もはや意識は飛んでいるといったほうが当たっている。

バンドを組んで毎日練習に明け暮れ ライブに臨んだ時
ベースを担当しドラムのリズムを
必死に追っていた。
間違えないように 入りのタイミングをはかっているときは 意識の塊。
しかし アンコールが来て 得意な曲を演奏しているとき
意識が飛んでいた。陶酔?

以上の二つの体験の共通項は
「我」を忘れていること。
そしてこの二つは
西田幾多郎がたどり着いた哲学
「純粋経験」の例にまさに挙げられている。

我を忘れる つまりは 
意識していない 判断の外にある
ということか。

西田はデカルトからはじまる西洋の「主観・客観」峻別に疑問を持ち
意識についての独特な見解を持った。
「純粋経験」は主体と客体が一体化していて我の無い状態とする。

哲学はこの辺にしておくが
彼が言う「純粋経験」は
心身が溶け込んで
単純に気持ちがいい
心身が解き放たれた感じだろうか

日常の処世のためには
絶えず意識を使い 拘り 考え 
結果 自分は束縛される 
それが「純粋経験」の間は
垢が落ち純化される
「純粋経験」は陶酔的であり 
気持ちがよくなる

そんな経験はなかなか出来ないのか?

昨日 意識についての研究について面白いモノを見つけた
関西大学「笑い学入門講座」で同大の井上教授の言だ
…笑っている最中は、我をなくし笑う行為に身を任せ、
また笑いの対象に雑念無く意識が統一されているという点で
笑いもまた「純粋経験」である…  という

そうか 「笑い」か
こんな身近なところに「純粋経験」はあるのだ
たとえば 松本人志が対談でゲストに反射的に放たれる言葉に
吹き出してしまう。 
倫理的な問題であれこれ騒がれている松本氏だが
「純粋経験」の笑いは 
善悪の判断の手前にある
吹き出してしまうのは 
もうしかたがない

「純粋経験」の状況は  
気持ちがいいから
たくさん経験したい。
しかし、ロック クライミング 
は身体がついていかないし
バンドも解散しているから
笑う機会があるとよさそうである

さしあたり「笑い」をさがしに動き出してみようかな。
自由に生きる という私の願いに 近づけそうだから

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