見出し画像

太宰治、愛だったのか花の匂ひ満ちている

2024年2月11日。
梅の花は香りが飛び、
御殿場線国府津から一つ目の下曽我は町全体が微かな匂いに満ちている。
人も集まるのでそれに合わせて「うめまつり」期間となっている。
獅子舞があり、出店が10以上も出店し賑わっている。2月の冷気の中ではあるが、集う人々には春を思わせる雰囲気が溢れている。

その賑わいを抜けバス道路の向こう側に上がっていくと、極端に人は少ない。そちらは梅はあっても個人の庭にそれぞれ好きな梅を植えて楽しんでいるので、梅林というのではない。しかしむしろ各家で手をかけているのだろう、枝ぶりも素敵だし、もちろん香りもいい。

そうした家々をつなぐ小径の坂を上っていくと、かつて太宰治の婚外子(太田治子)を産んだ太田静子さんがひっそりと暮らしていた「大雄山荘」の跡に至る。荘は平成21年2009年に残念ながら不審火により焼失した。2024年の今は空き地となって放棄され写真のように雑草の勢いがすごい。

「太田静子さんにかわいがってもらいました」
歩行器代わりの乳母車を押しているご高齢のお姉さんに、その辺りを彷徨いていたら声をかけていただき、生の世間話をうかがえた。
大雄山荘跡は太宰治関係ということで、地元では保存運動もあったそうだが地権者がそれを望まず、『斜陽日記』(太田静子著)の情景に出てくる庭石の類は外に持ち出されたと伺った。

太宰治が太田静子に向けたのは、ニセの愛情だったのか、単なる肉の煩悩だったのか。
私は没落していく貴族の匂いを静子に感じた太宰が、自らの津軽の実家と重ねていたと思っている。そして、そこから生まれた親愛の気持ちが男女のちぎりに素直につながる。…この流れは村上春樹のセックス観じゃあなかろうかと個人的には思う。

親愛! しかし、無理なんだよね世間は。勝手な男のロマンは単なる情欲とされ、現実的には非難の的である。そして道ならぬ関係、不倫という汚い呼び方をする。 

また、太宰治は太田静子さんがしたためた日記を、この地から持ち出し、それを下敷きに「斜陽」を書いた。
文学的評価は太宰治にあるのは間違いないが、もしも静子さんの日記がなければ、太宰治は津軽の実家のことを「斜陽」に書いたはずである。
(私の勝手な思い込みだが)そうしたら記述が津島家に入り込みすぎて、作品に普遍性を持ちきれなかったのではないかと考える。それほどまでの日記を書いた静子を太宰治はリスペクトしたに違いない。

後に静子さんは、太宰治は自分の書いた日記が欲しいがために自分に近づいたのではないかといぶかった。しかし、私はそれは違うと信じている。
今、私はこの箱根の山々を臨む地で、荒城の跡の如き大雄山荘の地に佇み、梅の香に包まれている。
まったくの男としての第六感だが、その中で覚えるのは、太宰治は決して太田静子さんを手段としたのではなく、純粋な親愛の目的として接していたということだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?