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黒海の記憶#26/東方世界を駆逐するローマ帝国

破竹の勢いで東方へマーケットを拡大するローマ。BC62年、ポンペイウスが凱旋帰国した。そのパレードは2日間に渡って続いた。彼が制圧した国家の名前が大書された記念碑が神輿のように運ばれた。そこにはパフラゴニア/アルメニア/カッパドキア/メディア、/コルキス/イベリア/アルバニア/シリア/キリキア/フェニキア/パレスチナ/ユダエア/メソポタミア/アラビア・・そしてポントスの名前があった。ポンペイウスは1000の要塞を陥落させ、800もの船を拿捕した。そして900の城塞都市を我が物にした。その膨大な略奪品を載せた馬車が市内を延々と練り歩いた。それは歓喜する声を飽きさせるほど量だったという。
ポンペイウスは、そのときアレキサンダー大王が纏っていたというマントを着ていた。宝石に飾られた馬車に乗り、その後ろに部下たちが続いた。後に続いたのは彼の足元に屈した国々の王たちだった。彼らは自国の衣装を着ていた。その数は300あまりと記録が残っている。その最後はスキタイ人女性によるアマゾネスの軍団だった。しかし・・欠けていた王がある。もっともしぶとくローマと戦ったポントス王ミトリダテスである。ミトリダテスは自決し、その遺骸は行方不明になっていたのだ。
ポンペイウスは巨大な純金の彼を模した像を作らせた。それを先頭に立てミトリダテスの親族を歩かせたのだ。残念ながらその純金の像は残っていない。

ちなみにこの凱旋の翌年、ポンペイウスとクラッスス、カエサルが第1回三頭政治を始める。そのポンペイウスの元老院での力は、東方世界の生産物が全て彼の管理下にあったことである。カエサルはそれを恐れた。なので自らもガリアの膨大な生産力を求めて遠征に出ることを決意した。「借金王カエサル」という異名を持っていた彼は、生き残りをかけてイチかバチかの勝負をかけたのである。
そのカエサルの大博打が成功すると、今度は元老院がカエサルを恐れた。ポンペイウスはこの元老院に担がれてカエサルと対立してしまう。ポンペイウス/カエサルに巨頭政権はあり得なかったのか? そうとは思えない。しかしポンペイウスは、うまうまと元老院の謀略に乗り、カエサルと対立してしまうのだ。そしてBC49年1月から二人は戦闘状態に入った。東方の巨大利権を持つポンペイウスと西の巨大利権を手に入れたカエサルの戦いである。戦いの女神はカエサルに微笑んだ。ポンペイウスはエジプトに逃れるが、ローマの顔色を窺うエジプト王によって暗殺されてしまう。

それでも・・ポンペイウス亡き後も東方世界はローマの支配のまま残った。ローマという国のシステムの凄さはそこだ。王が替わっても支配力はそのまま保持される。つまり支配のための官僚組織が極めて堅牢に構築されているのである。その意味では日本国がよく似ているかもしれない。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました