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東京島嶼まぼろし散歩#07/日本列島に住むヒトたち#07

「この間、洞爺湖へ行ったとき見た『国立アイヌ民族博物館』で蝦夷代官だっけ・・その話をしてたわよね」

「ん。鎌倉時代の役職だ。蝦夷沙汰職とも言われる。当初、鎌倉幕府にとって北海道は重犯罪者たち用の流刑地だった。蝦夷代官はその流刑人の管理統轄をするセクションだった。北条義時が執権を握って陸奥守になったときに作られた役職だ。鎌倉幕府初期の頃だ。、陸奥というのは平安時代まで"みちのく"と呼ばれていた。万葉集14巻3427に『美知能久』とある。
"筑紫なるにほふ子ゆゑに美知能久の可刀利娘子の結ひし紐解"
陸(みち)の奥(おく)だから陸奥だな」
「ん~また万葉集ね」
「ん。日本語の言葉の宝庫だ。ついでに三首陸奥國歌を詠うと
3426会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね
3427筑紫なるにほふ子ゆゑに美知能久(陸奥)の可刀利娘子の結ひし紐解く
3428安達太良の嶺に伏す鹿猪のありつつも我れは至らむ寝処な去りそね
何れも東歌で相聞だ。詠み人知らずだ」
「ところで・・なぜ死刑じゃなくて流刑なの?」
「流刑の大半は政治犯だった。実は簡単に殺してしまう死罪より流刑の方が残酷だった。流された人たちは飢えか病で死んだからね。
一番最初の流刑人は書記に出で来る軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)だ」
「皇女?女の人?」
「ん。木梨軽皇子の妹だ。近親相姦だった。しかし木梨軽皇子は天皇になる人だったんで、妹だけが罰せられた。これが書記に出てくる最初の流刑の記事だ。大宝律令の制定に流刑は入れられたから、流刑の歴史は長い。流刑先は、都からの距離に応じた近流/中流/遠流に分けられていて、マーケットはずいぶん昔からあったんだよ」
「北条義時は遠流を請け負っていたの?」
「ということになるな。蝦夷管領に安藤堯秀としたのが始まりだ。安藤氏は、鎌倉幕府滅亡後、姓を安東氏に替えている(1330)。そして『東海将軍』『日の本将軍』を名乗り北海度の支配者になっている。あるいはなろうとした・・」
「なってないの?」
「実質的にはなっていない。征夷大将軍にさえなっていない。戦国の時代に揺籃された。・・その安東氏から北海道南部を引き継いだのが蠣崎氏だ。蠣崎氏は陸奥国北郡田名部の領主だった。時の陸奥の支配者南部氏に反乱(康正 3年1457)をおこしたが、これに敗れて北海道に逃げている。ところが蠣崎氏は、北安東氏の下で入り民でじっくりと伸びたんだよ。そして拠点にしていた松前を姓にしている。これが松前藩だ。
実は、松前氏は豊臣の時代になると安東氏を飛び越して豊臣秀吉に臣従したんだ。目先の効く領主だったわけだな。そのことで安東氏の支配下から逃れた。そして家康だ。松前氏は家康の配下に入る(慶長4年1559)ことで、安東氏が秋田氏になることで、蝦夷地に対する支配権を手に入れたんだよ。実に100年近い時間をかけて、蠣崎氏(松前藩)は北海道を手に入れた・・という訳だ」
「でも‥主たる産業がなかった・・という話よね。」
「ん。海産物しかなかった。米は年貢として出せるほど取れなかった。たしかに交易船は既に出ていた。北海道の松前と本州の間が繋がったのは鎌倉時代中期以降だし、室町時代になると越前国・敦賀まで船で運ばれるようになっていた。江戸時代になって北前船が本格化するまで大きな産業にはならなかったんだ。松前藩は土地の人々に対して、かなり強圧的だったから地元各地で何度も反乱が起きているしね、決して善政を敷いていたわけじゃなかった。それでも江戸時代末期から明治にかけて北海道の産業は大きく伸びたんだ。
明治政府に移管されたのは明治2年(1869)6月24日だ。藩主だった松前修広が館藩知事になった。廃藩されたのは2年後だ」
「いつ北海道という名前になったの?」
「北海道という名前を付けたのは松浦武四郎という人だ。彼は開拓使・開拓判官だった。

彼の幾つか出した名前の中から、明治政府は「北加伊道」を選別。古代の五畿七道の東海道・西海道・南海道を倣って"加伊"を"海"換え「北海道」としたんだよ明治2年8月15日だ。御前会議を通ったのがその5日前の8月10日だ。」
「北の加伊の道?なぜ松浦武四郎は加伊と言ったの?」
「なかなかなぜが多いなぁ・・松浦は『蝦夷地道名之儀勘弁申上候書付』のなかで、北加伊道の「加伊」は、アイヌ語でアイヌ人を指す「カイ」のことだと言ってる。それと蝦夷を「カイ」と呼ぶことができるとも言ってる。松浦は此れが加伊を織り込んだ理由だと書いてる」
「なるほどねぇ~」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました