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ワインと地中海#35/キルケアの旧市街を歩く#03

旧市街、あまり奥まで入らないまま港まで戻った。予約していたOra Restaurant(Agoniston Politechniou, Kerkira 491 00)は波止場沿いにテーブルを並べていた。案内をしてくれたガルソンがきびきびして品の良さを感じた。
https://orarestaurant.gr/
ワインは土地のオレンジワインである。料理は典型的な地中海料理である。僕の好みで中々嬉しかった。テーブルの向うに要塞跡Πύργος της Θάλασσαςが見えた。
「コルフ旧市街は二つの要塞に挟まれた町なんだよ。南にあるのが、あの新要塞。北にあるのが旧要塞。新要塞は、この島が英国領だった時代に作られたんだ。1815年から1863年のころだ」
「要塞って・・何から守る要塞だったの?」
「オスマン帝国だ」
「まだ有ったの!?」
「オスマン帝国が無くなったのは1922年だよ。第一次世界大戦を待たなければならない。ヴェネツィアがナポレオンの支配下に堕ちて、急速にアドリア海での勢いを失った後、アドリア海は英国のものになった。気に入らないのはオスマン帝国さ。とくに英国が暗躍してギリシア王国独立の機運が有ったからな。大陸側と細かい衝突は無数にあったんだよ」
「なるほどねぇ」
「旧要塞は、1570 年代にヴェネツィア人が整備増設した。大陸側から断続的に島を襲ってくる海賊たちから町を守るためにね。キルケアはこの辺では突出して豊かな町だったから強盗たちの餌食にされたんだろうな」
「ヴェネツィア人って、東ローマの支配地だったんでしょ?」
「ホテル・ダニエリの持ち主だった盲目の豪商ダンドロがいただろう? 彼がフランスから流れ込んできた十字軍を手玉取ってコンスタンティノープルを攻めたのが1204年だ。そのときからイオニア諸島はヴェネツィア人の完全支配になっていた」

「あらま」
「もちろんその前から、東ローマはアドリア海の治安をヴェネツィアに委託していたから、既に実質此処はヴエネツィア人の島だったんだけどな」
「整備増設ということは、それより前から要塞はあったの?」
「ん。西暦500年ころから建造が始まっている。作ったのはローマ人だ。西ローマが滅びてアドリア海は有象無象の蛮族が跋扈する海賊放置地区になっていたんだよ。キルケアは既に交易都市として大きく栄えていた。ローマは町を守るために急遽要塞化したんだ。それがそのままヴェネツィア人に継承された・・というわけさ。おかげで1537/1571/1716年とキルケアはオスマン帝国からの対攻撃をうけるが、町は完全に保守できたという。旧要塞と旧市街地だけがオスマン帝国の支配されないままヴェネツィア人のものとして残ったんだ。
ところが第二次世界大戦だ。ナチスドイツにキルケアは占領された。そのとき・・島の支配階級だったユダヤ人は強制連行されて旧要塞に閉じ込められたんだ。収容所になった」
「ほんとうに激動の中を生き残ってきた町なのね」
「ん。フェニキア人が去った後、イオニア諸島はギリシャ人のものになった。この島にケルキラという名前を付けたのはギリシャ人だ。川の神アソポスの娘コルキュラのことだよ。コルキュラはポセイドンにさらわれこの島で暮らした。コルキアがケルキアになったのは、支配者がドーリア人に代わって、彼らの方言のためだ。
古代ローマの地理学者ストラボンは、ホメロスの『オデュッセイア』に出てくるスケリアScheriaがケルキアを指すと云ってるな。パイアクス人が棲んでいたと書いている。初代王パイカスの息子ナフシトスはホメロスの王アルキノスの父だとある。アルキノスとその娘ナウシカがオデュッセウスを助けたと『オデュッセイア』にある。彼の長い旅路に出てくる大きなエピソードだ。

最近の発掘でイオニア諸島には、無数のフェニキア人の痕跡が見つかっている。彼らはアドリア海にある自分たちが植民した沿岸都市と強力な交易体系を作った。まあ、古代ギリシャLOVE♡の英国系考古学者には不都合な真実だろうな。今でもその辺の話は有耶無耶になってる」


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました