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佐伯米子#02

9月1日関東大震災の日、佐伯祐三/米子は長女彌智子と共に信州にいた。
東京で異変があったことは静岡にもすぐに伝わった。まだラジオも漸く普及したばかりだったが、信越線が停まり、新聞の配達が止ったからだ。尋常ではない。
新聞社はほとんど全滅した。そのため内務省情報部は「震災彙報」を発行していたが、回覧されたのは東京市内だけだった。第1号は9月2日午後7時、1日に2、3回、多いときは5回発行、これを10月25日まで67号発行し、陸軍と警察が市内各所に配布している。「お済みになった方は、往来のよく見えるところに貼って下さい」とある。
当時の本所区役所の記録は以下のようにある。

「9月1日のうちは、震災のため家屋に圧せられて生じた傷病者を救出する暇もなく、続く火災に逃げ損ねて火傷を負った人たち数万人に救護の手をつくす見込みもなく、虚しく不幸な人たちの苦悩を見ているばかりだったが、2日早朝、杉山主事は被覆廠跡に至り、傷病者の多さに驚き、市の赤十字社に救護班の派遣を申請したが、思うに任せなかった」

尾張町/土橋の実家の安否に米子は気を揉んだ。そこに父からの手紙が届いた。
「土橋に人命の変わり無くご安心ください。家は全焼しました。帰らずにください。」端正なはずの父の筆跡とは思えないほど乱れたものだった。消印は9月7日。
この手紙を見た祐三は「とにかく行ってくる」とすぐさま駅へ向かった。しかし列車は運行していない。祐三は偶々目の前を通った貨物列車に飛び乗り、大宮まで辿り着いた。そこからは徒歩で土橋の米子の実家に着いたのは翌日のことである。

米子の実家は完全に燃え尽きていた。土蔵に納められていた大量の象牙も白く燃え尽きていた。池田家の財産全てが灰燼と化していたのだ。しかし幸いなことに家族は全員無事で、下落合に有った祐三のアトリエへ避難していることが分かった。
祐三は、下落合のアトリエでしばらく過ごした後、回復してきた国鉄を利用して信州へ戻った。

その祐三夫婦がパリへ旅立ったのは、三ヵ月後の11月末のことである。窮禍患害をものともせず初志を通すさまは、まさに祐三らしい態度だと云えよう。米子はその祐三に寄り添った。しかし訪巴のために米子が用意して実家に置いていたものは全て燃えていた。下落合のアトリエへ運んでいたものだけしか残っていなかった。死傷者は出なかったとは云え、その決断は周囲に波紋をもたらしたに違いない。
僕は考えてしまう。
東京へ/下落合のアトリエへ戻った米子は、燃え尽き土橋の実家/尾張町の店を訪ねただろうか。脚の悪い米子が歩くには余りも危険な街に、彼女は出かけただろうか?
出かけたに違いない。燃え尽きた実家。銀座。そして母校東京女学院を惨状を彼女は見つめたに違いない。そして崩壊していく池田家の経済状況を見つめながらも尚、彼女は夫祐三に添ってパリへ渡る決心をしたに違いない。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました