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日本国憲法1-1/もうひとつの東京の薔薇

目白にある浜田家の朝は早い。家族は毎朝食卓で顔を合わせる。幸枝の前の席は首相官邸へ奉職している兄・康弘だった。幸枝は同盟新聞社に勤めていたが、今は新橋・愛宕山にある日本放送協会(JOAK)へ出向している。海外向け放送の手伝いと臨時で時折アナウンサーを務めていた。
その放送・・8月9日で幸枝が話した内容について、その夜、兄からつよく叱責されたあと、二人は口を聞いていなかった。あのとき幸枝は、初めて兄に強く言い返した「卑怯なものは卑怯です!」と。
「愚か者!この大きな曲がり角の時に、わざわざ口にすべき言葉ではない。身のほどを知れ。」兄は幸枝を睨みつけて言った。幸枝は納得できなかった。
そして1945年8月14日。家族で囲む朝餉のテーブルで、5日ぶりに康弘がボソリと言った。
「今朝も出局するのか・・」
「・・はい。」
「今日はやめなさい。休みなさい。病欠の連絡しなさい。」康弘は幸枝を見ないまま言った。
「・・・できません。約束した仕事があるのです。」幸枝は応えた。
「ここへ・・このテーブルへ・・帰れない道だ。判っているのか?」
「・・はい。」幸枝が応えると、康弘はそれ以上何も言わなかった。そして黙って席を立った。その兄が家を出るとき、幸枝は玄関まで送らなかった。幸枝はそれを生涯悔んだ。

社団法人東京放送局(JOAK)は、新橋のはずれ愛宕山に放送局を置いていた。浜田幸枝は毎朝、先ず日比谷の同盟新聞社に寄ってから愛宕山へ出るのだが、その日はまっすぐ局へ出た。そして自分の席に着くと、同盟社から届いている英文の記事を日本語に翻訳する仕事を始めた。それが彼女の日課だった。記事について、局から質問が有ればそれを同盟新聞に伝え、論拠となっている英語原文を手に入れて、翻訳し質問者へ渡すと云うのが彼女の仕事だった。
その日も、いつものようにそのルーチンをこなしていた。
「浜田君・・幸枝さん」と声をかけたのは、小佐野短波局主任だった。夕方6時を回ったところだった。主任自らが幸枝を迎えに来たのだ。そんなことは初めてだった。今日と言う日の重さに、幸枝は思わず鳥肌が立った。
「はい」幸枝は明るく応えて席を立った。

その放送のためのブースは小さかった。幸枝は席に着いた。目の前に原稿が有った。幸枝は目を通した。原稿には「10時30分陛下御英断、13時陸軍省課員以上全員を省内第一会議室に集め、御聖断の訓示。さらに憲兵司令部で御聖断の訓示。18時より鈴木首相が拝謁、各部へ伝達」とだけ書かれていた。幸枝は原稿を持つ手が震えた。
「終わったのね・・ほんとに。」幸枝は小さく呟いた。この戦争は終われない・・そう思っていた。日本人が最後の一人が死ぬまで続くもの、そう思っていた。「まさか終われるなんて」原稿を見つめながら、幸枝はもう一度ため息のように呟いた。
金魚鉢の向こうから、ヘッドホンをした小佐野主任が言った。
「いいですか・・始めますよ、浜田君。いつものように自由に解釈してしゃべってください。君の言葉で良い。原稿は読まなくていい。」
幸枝は黙って深く頷いた。
・・なぜ、こんな事になってしまったんだろう。幸枝は思わず考えた。

もともと対米プロパガンダ放送「ゼロ・アワー」は、駿河台の分局で配信されており、愛宕山からは引き離されたプロジェクトだった。放送は軽音楽と女性アナウンサーのDJで構成されていた。最初に流されたのは1943年11月1日。こんな内容だった。

「太平洋で戦うアメリカ軍のみなさま。今日から私がお相手いたします。いまの音楽はいかがでしたか?シカゴとニューヨークで流行っているナンバーを私が選んで、みなさまにプレゼントします。きっとアメリカ本土に残されたあなたの、奥様、恋人、妹たちも、このナンバーを聞いて、寂しく涙を流しているでしょうね。でもどうかしら?涙を流すだけならいいけれど、もしかしたら寂しさに負けて誰かあなたの知らない良い人を作ってしまうかもしれませんね?でもそんなことが有ってもあなたは知らないまま。ワシントンの下院婦人会でも不倫が激増していることを議論してるのに、あなたたちは知らないままなんです。
だから早く、銃を捨てて帰国したほうが良いと思いますわ。でないとガナルカナルのST87のように、海の底へ沈んでしまうかもしれないし。」そんな放送のあとに再度、軽音楽がかけられて、最後に「お相手はトウキョウ・ローズでした。また明日の夜、お会いしましょう」と閉められた。こんな放送が、駿河台の分局から2年9か月続けられた。

トウキョウ・ローズ。米兵たちは魅了された。彼女たちは数名いた。それぞれがニックネームを名乗っていた。
同盟新聞社からの出向だった浜田幸枝は、当初彼女たちに最新ニュースを手渡すのが仕事だった。彼女たちのトークの中に最新ニュースを交えてリアル感を出すためだった。その幸枝が、マイクの前に立つようになったのは、東京への空襲が酷くなって、それに巻き込まれた女性アナウンサーが何人も亡くなってしまったからだ。英語(キングス・イングリッシュ)が流暢に話せると云う理由で、彼女は余儀なくマイクの前に立ったのである。それでも駿河台で彼女がブースに入ることは稀だった。駿河台分局は特殊な雰囲気にあったのだ。まるで・・まるで・・コュミニズムの臭いがする。彼女はそう肌で感じていた。彼女は駿河台には馴染まなかった。

そんな駿河台も戦況が厳しくなると、さすがに「ゼロアワー」の配信が途絶えがちになっていた。1495年、7月の終わりから事実上駿河台からの放送は停止していた。
そして8月6日。全世界の放送局はヒロシマで試された新型爆弾の威力について、手放しで絶賛するニュースが溢れるように流れた。「これで勝てる!」「日本は原始時代に戻る!」称賛の言葉が、空を舞い飛んでいたのだ。知らないのは・・知らされていないのは日本人だけだった。

そして8月9日。追いうちをかけるように長崎。それも長崎の教会の上で炸裂した赤い炎。
沈黙していた「ゼロアワー」唐突に再開された。
「こちらゼロアワー」アナウンサーはぎこちない英語を話す男だった。小佐野主任だった。駿河台分局からではない。駿河台はその頃既に機能しなくなっていた。その日の番組は、担当者の判断で愛宕山から放送されたのだ。しかし放送はすぐに中断された。そして続く雑音の後、唐突に女性の声に変わった。「卑怯者! 私はあなたたちの良心を信じていたわ! それなのに・・卑怯者Shamed Down! たくさんの罪のない人を殺すなんて! あなたたち米国民がこんなに卑怯者Shamed Downだとは今まで考えてもいなかったわ・・」放送はそれで途絶えた。 
沢山の賞賛の放送の中に、ひとつだけ紛れた怒りの声。意外なほど、その放送を聴いたものが多かった。Shamed Down・・顔も上げられないほどの卑怯者。このトウキョウローズに激昂する兵士もいた。黙って俯く者もいた。無数に折り重なる無辜の人々の屍体を幻視した米兵もいたはずだ。

あの日、愛宕山からしゃべった女性は浜田幸枝だった。放送中のマイクの前に立つ小佐野主任のもとへ、控えにいた幸枝が無理に割り込んでしゃべったのだ。
「主任、それはトウキョウローズの仕事です。私たちの仕事です!」彼女は言った。
この放送の件は、すぐさま首相官邸で働く兄の耳に入った。そして夕餉のとき、つよく叱責されたのである。幸枝は、その日のことを思い出していた。間違ってなかったと思う。「私は間違っていない。卑怯だと思う」幸枝は兄の叱責を思い出すたび、声に出して何度も繰り返した。卑怯なものは卑怯だ・・と。

そして今日、8月14日。愛宕山の短波放送ブースに座って、幸枝は小佐野主任の合図が出るのを待った。
合図が出た。幸枝は背筋を伸ばすと話し始めた。

「ハロー・エヴリバディ。この放送をお聞きの兵隊さん。トウキョウローズがしばらくぶりにお話しします。
いま私(I)はとても悲しい気持ちでいます。それは敵味方に分かれて戦っていても、私たち(we)は、いつでもずっとあなたたちを尊敬していたからです。イギリスから独立を獲得したあなたたちの心は本当にすばらしいものでした。はじめてその歴史を呼んだとき、私は少女でした。とても感動して心が震えたことを憶えています。
でも、どうでしょうか?人々が寝静まった深夜に東京へ来襲し街を囲むように火の海にして、10万人もの戦わない老人や女性子どもを殺し、そして広島ではもっと酷い虐殺を果たし、そして長崎でも無辜の人々を何十万人も殺したあなたたち・・そんなあなたたちに、 私は哀しみと裏切られたという気持ち以外に何も持つことができません。
普通に生きて普通に生活する見知らぬ人たちを、空から襲って大虐殺することが、あなたたちの正義なのですか? 
もしかすると、あなたたちは私たちに勝つかもしれません。でも本当にそうでしようか? 戦場を跨いでその後ろにいる武器を持たぬ人々を虐殺しまくって、それであなたたちは勝った勝ったと喜べるのかしら?それはあなたたちが、何よりも大事にしている"フェア"という精神を守った上での戦いなのかしら?そうだと言い切れるのなら・・これからの歴史の中であなたたちの勝利は、必ず裁かれるでしょう。そしてやがて、あなたたちの神からも、あなたたちのしたことは厳しく審判が下されるでしょう。私たち(we)はその日を待ちます。ではさようなら、アメリカ軍のみなさま、これで東京からの最後の放送を終わります。こちらはトウキョウローズ、こちらはトウキョウローズ」
放送は沈黙した。淡々と語って、そして沈黙した。音楽は流れなかった。
マイクのスイッチは繋がったままだった。電波はそのまましばらく空を飛んだ。小佐野主任はスイッチを消せなかったのだ。それでも放送は唐突に切れて、空電だけになった。

この放送を聞いた兵士は少なかった。北部方面に駐屯していた海軍の兵士の一部が聞いただけだった。彼らによると、最後のトウキョウローズの放送は、電波が弱く音声も途切れ途切れだったという。いつも同時に流される軽音楽もなかったという。
浜田幸枝は黙って俯いたままだった。録音室が開いた。小佐野主任が入ってきた。そして深々と頭を下げた。
「私は貴女をとんでもない処へ送ってしまった。・・もうしわけありません」
幸枝は小佐野主任を見つめた。微笑もうと思った。とんでもないと言おうと思った。でも・・言葉は何も出てこなかった。と。小佐野主任の背後に、同盟新聞社の今和泉局次長の姿が有った。
「?」幸枝は一瞬戸惑った。
「おつかれさん。行くぞ。」今和泉は言った「此処にこれ以上、長居はできない。もうそろそろ始まるかもしれん。」
「なにが・・ですか?」幸枝は聞き返した。
小佐野主任が言った。
「今夜から明日にかけて、きっと愛宕山は沢山の人死にが出ます。幸枝さん、無為な類が貴女に及ぶといけない。早々に、和今泉さんと立ち去ってください。後は私が片付けます。」

幸枝は、今和泉局次長に肩を抱かれて足早に愛宕山放送局を出た。玄関に同盟新聞社の黒いセダンが停っていた。
二人は飛び込むように乗った。
今和泉が運転手に言った。「大門へやってくれ。細かい指示は後でする」
車が走り出した。
「・・新聞社には戻らないんですか?」幸枝がおずおずと聞いた。
「今夜は駄目だ。本社もどうかすると危ない。明日もだ。明日も危ない。もしかすると浜田。君の自宅も危ない。しばらく私の知り合いのところに居てくれ。事態が何かまとまるまで。形が見えてくるまで大人しくしてくれ」
「どうしてですか?」
「ふたつ。」今和泉は指を立てた「今夜、宮城と愛宕山は若手将校による血の雨が降る。必ず降る。2/26と同じだ。 そしてそれ如何で、すぐに薔薇狩りが始まる。我々が敗北を認め、奴らがやってくれば・・トウキョウローズは狩り出される。そして見せしめにされる。」今和泉は、畳み込むように言った。その勢いに幸枝は圧倒された。

「・・私は・・とんでもない処へ・・」覚悟はしていたけど、幸枝は初めてその意味の重さを実感した。そして鳥肌が立った。 同盟新聞社の黒いセダンは、そのまま大門の寺社の黒い杜へ姿を消した。

昭和天皇による終戦詔書の録音が行われるという通達が、日本放送協会(JOAK)に正式に届いたのは1945年8月14日13時あたりである。録音は内廷庁舎にて行われると云うものだった。待機していた日本放送協会会長および幹部3人、録音担当者5人は15時に宮中へ向かった。

録音用機器は予備を含めて4台。機材は拝謁間にセットされ、録音室として隣室の政務室が使われた。録音開始は23時25分ころから、宮内大臣や侍従長らが見守られながら、陛下は朗読された。
録音は二回された。一回目の録音を陛下が気にいられなかったである。
録音は8月15日午前1時頃までかかった。

終了後、坂下門から急いで退出する情報局総裁と録音班は、待ち伏せしていた近衛歩兵第二連隊第三大隊長・佐藤好弘大尉らによって拘束・監禁された。そして強引な誰何で未だ録音盤が宮城内にあると判ると、彼らはそのまま宮内省へ雪崩込んだ。これが所謂『宮城事件』である。

日本の一番長い日だ。 幸いにもクーデターは未遂に終わった。
同じく愛宕山の放送局も彼らによって占拠されたが、こちらも悲惨な殺戮事件までは発展せずに、クーデターは未遂に終わった。
そして1945年8月15日、正午の時報の後、玉音放送が始まった。
放送前の説明を行ったのは和田信賢アナウンサーである。
海外向け国際放送(ラジオ東京)では平川唯一アナウンサーが"Imperial Rescript on the Termination of the War"という原稿を朗読した。

このふたつの放送を、浜田幸枝は大門にある今和泉局次長の実家で聞いた。大きな居間の真ん中にポツンと置かれたラジオを前にして、見知らぬ家族に混ざって聞いた。


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資料01/終戦の詔書 1945年8月14日
天皇の大権に基づいてポツダム宣言受諾に関する勅旨を国民に宣布した文書。1945(昭和20)年8月14日発布され、戦争終結が公式に表明された。同日、天皇は詔書を録音、翌15日正午、その内容はラジオ放送を通じて広く国民に報じられた。

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朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負イ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

御名御璽

昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣 男爵 鈴木貫太郎
海軍大臣 米内光政
司法大臣 松阪広政
陸軍大臣 阿南惟幾
軍需大臣 豊田貞次郎
厚生大臣 岡田忠彦
国務大臣 桜井兵五郎
国務大臣 左近司政三
国務大臣 下村宏
大蔵大臣 広瀬豊作
文部大臣 太田耕造
農商大臣 石黒忠篤
内務大臣 安倍源基
外務大臣兼大東亜大臣 東郷茂徳
国務大臣 安井藤治
運輸大臣 小日山直登

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました