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夫婦で歩くプロヴァンス歴史散歩#04/アヴィニョン#04

https://www.youtube.com/watch?v=fE11-9Fnps0

地中海イタリア半島西側。プロヴァンス地方へ最初に植民地を持ったのはフォカイア人Phocéensだった。そこには先住民として2000年ほど前からリグリア人がいた。リグリア人は、現在のロンバルディア西部、ピエモンテ東部、ティチーノの地域から拡散した人々である。
シラクサのアンティオコスAntiochosの言葉を借りると、フォカイアの船乗りプロティス は大軍を持って辿り着いたとき、リグリアの王はプロティスに娘ジプティスとの結婚を望んだという。王女は食事中に水で満たされたカップをプロティス見せ、見知らぬ人との結婚をきめたとある。アンティオコスは、豊かで防御に適した丘に囲まれた深い入り江に魅せられ、マッサリアMassalia(我らの塩)と名付けたという。
じつはこの二人について、アリストテレスも言及« La Constitution des Massaliotes »しており、彼は二人をユークセノスEúxenosペッタPettaと呼んだ。この結婚についてアリストテレスは動詞 συνοικείν 「同居する」をという意味を使っている。そして夫Eúxenos (Εὔξενος、「良いホスト」) と結婚すると、彼女PettaはAristoxénè (Αριστοξενη、「最高のホステス」) と名前を替えている。・・ちなみにだが、アリストテレスは、マッサリアでプロティアデスと呼ばれるアリストクセノスの子孫である一族に会っている。
全ては伝説の中の話だが・・このフォカイア人の植民については、近年サン ローラン教会メジャー トンネルの跡地で行われた発掘で、史実であると確認されている。また1993年にマルセイユ旧港近くジュール ヴェルヌ広場の下へ駐車場を建設中に、古代の港の遺跡が発見されフォカイア人の難破船が発見されている。フォカイア人の移植は間違いなくあっただろう。



ローマ台頭の前夜である。紀元前500年ころ、ギリシャ人は西地中海に幾つもの植民地を起こしている。アルル、アヴィニョン、ニース、バレンシアなどである。ギリシャ人たちはイベリア半島東南岸への貿易拠点としてこれらを利用していた。
しかし・・本体ギリシャが重なる城塞都市同士の抗争で凋落することに相まって、北アフリカからイベリア半島へ広がり勢力を維持していたカルタゴを狙ってローマは西地中海へ派兵を決行した。第二次ポエニ戦争である。交戦先がヒスパニアなのでハンニバル戦争とも呼ばれる。
同時にローマはドミティアヌス街道の建造に入り、軍道を確保。BC118年には市民植民市ナルボ(現ナルボンヌ)を起こしている。
こうしてローマはイタリア半島を越えて地中海全体へ拡大する属州/プロヴィンキアPROVINCIAを持った帝国へと形を換えていくきっかけを作ったのがハンニバル戦争だったといえるかもしれない。。
のちに、ガリア内の他のローマ属州は独立するが、ナルボンシスガリアだけがローマ直轄地として残った。そのためためにプロウィンキアPROVINCIAと末言葉は言えばこの地方のことを指すようになった。そして時代と共にプロウィンキアPROVINCIAは、「ロヴァンスProvençaと名前を替えていき、現在に至る。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました