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夫婦で歩くプロヴァンス歴史散歩#15/シャトー・ヌフデ・パプ05

https://www.youtube.com/watch?v=QMXrSbVf6_A

西地中海のローマ化は、ローマが共和国から帝国に替わったあたりから急速に発展した。イベリア半島/北海との交易が安定し拡大したからだ。
云うまでもなく、交易の通貨は相変わらずワインだった。(もちろん、貨幣の使用も始まっていた)イタリア要塞都市から出発した商人たちは、ワインを自分の町から持ち出していたのだが、次第にその調達をナルボンシス/マッセリアで行うようになっていた。ヒスパニアとの戦いで狩り出された傭兵たちが、敵陣との緩衝材として、多数同地で畑を与えられていたからだ。彼らは全てが葡萄を耕した。そしてワインを作った。これをイタリアからの商人たちが叩いて買い漁ったのだ。・・これが本流になると、いつのまにかイタリア商人は空の船でナルボンシス/マッセリアへやってきて、此処でワインを仕入れ、西へ旅立つようになった。街は急速に豊かになり、さらにローマ化が進行した。

しかし、ここに不満が生まれた。イタリア商人たちはあまりにも底値でワインを買い漁る。ワイン農家へ転業した退役軍人たちは生活が安定し、収入が豊かになると、イタリア商人たちへ強い不満を持つようになった。そこで別の道を模索するようになった。
・・地図を見ると判るが。地中海と大西洋を結ぶ陸路の一番狭い道がナルボンヌとボルドーを道なのだ。途中険しいピレネー山脈があるが、これを越えてしまえば太平洋北側に大幅なショートカットができる。そしてガンロヌ川がある。ガロンヌ川はボルドーに繋がる大河だ。その川筋はピレネー山中のアラン谷まで繋がる長大なものだ。ここまで陸路でワインを運べば・・ボルドーまでの運搬は難しくない。とくにブッサンBoussensまでの陸路は険しくない。この道が確保されると、ナルボンヌの退役農家たちは、ボルドーに自分たちだけの交易所を作り上げ、ここへケルトの人々を招いた。こうやって直接交易が始まるまではそれほどの時間はかからなかった。この交易ルートが成立すると、多くの退役農家たち、さっさと地中海側からボルドー川へ移植を始め、西暦300年あたりまでマーケットの方向性は大きく変わっていった。わいんの交易はナルボンヌからボルドーへ。イタリア商人たちからボルドーの人々に入れ替わっていったのである。

往時、ガリア・ナルボネンシスは、元老院領で総執政官が統治管理し税徴収をしていた。ところが新興都市ボルドーは、退役農家たちが独自で作った町である。そのためローマの管理化にはなくタックスヘイブン租税回避地区のままだったのだ。そのため、ボルドーでの商売にローマは課税しなかった。これがボルドーを大躍進させた大きな理由だったに違いない。
ボルドーが租税回避地区という特権を失ったのは、ディオクレティアヌス帝の帝国行政再編時である。314年、彼はガリア・ナルボネンシス州とガリア・アキタニア州を合併されてウィーン教区Dioecesis Viennensisという新しい行政単位を組み上げた。この時にボルドーは完全にローマのはい管理体制に取り入れられている。それでもボルドーの躍進は停まっていない。地中海とは関係ない交易都市としてボルドーは独自性を持った。

・・実は、それよりも多くの問題を、西地中海側・属州は抱え込み始めていた。。それはローマそのものが弱体化したことだ。
ローマを揺さぶったゴート人が、ローマを跨いで西側に西ゴート王国を興した。415年、ローマはバリア王に褒章としてアキタニア属州の2/3ヲ与えた。このことでナルボネンシスとその周辺地域もまた実質的に西ゴート王国のものになってしまった。そして・・462年。西ローマは滅亡する。
西ゴート王国の邪魔者は消えた。西ゴート王国は我が世の春を迎えた。ところが・・500年代に入ると、北フランスで台頭したフランク族がブルターニュを南下してアキテーヌを攻めはじめた。フランク王クローディスの戦法・・キリスト信仰を守るための"聖戦"戦略という方法はきわめて有効だった。すでにキリスト教徒化していた農民は、悉くクローディスの味方をした。・・507年。勝敗はフランク王国が握り、西ゴート王国アラリック二世は、アキテーヌ地方を捨ててトレドへ遷都した。この時より西地中海周辺は、すべてフランク王国のものになっている。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました