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甲州ワインの謎#18/法隆寺に漂う西域の香り

TEXTとして残っているのは①推古天皇18年(610)10月に、新羅と任那の使人に来たということ。②そして朝庭を拝したということ。③この時、朝廷がわから世話から新羅への導者として「秦河勝」と「土師連菟」が配されたこと。
歴史学者平野邦雄は、この新羅と任那の来朝によって①広隆寺創建(611)のとき、新羅国からの献上仏が納められた。(上宮聖徳太子伝補欠記・聖徳太子伝暦)②また推古天皇24年(616)の時に訪れた新羅の使節によって持ち込まれた仏像も広隆寺に安置した(聖徳太子伝暦・扶桑略記)③推古天皇31年にのときに新羅使節から献上された仏像も広隆寺におさめた(日本書紀)と書く。「それらをすべて,新羅仏であるとする点が最大の特徴」であり「広隆寺は新羅仏教的要素をつよくもつ」「広隆寺に対する新羅仏教の圧倒的な影響」を語っている。

なぜ、新羅国からの献上仏が記録上すべて広隆寺に納められたのか?
広隆寺は、秦氏である秦河勝の寺だ。秦氏の出自が新羅あるいは任那であることを強く暗示する話だと僕は思う。
「日本書紀」にこうある。
皇太子,諸の大夫に謂て曰はく「我,尊き仏像有てり。誰か是の像を得て恭い拝らむ」とのたまふ。時に、秦造河勝進みて曰はく,「臣,拝みまつらむ」といふ。便すでに仏像を受く。因りて蜂岡寺を造る。
ここで云う蜂岡寺が広隆寺である。
「上宮聖徳法王帝説」はこれを「太子七の寺を起つ」として,四天皇寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺〈并せて彼の宮を川勝公に賜ふ〉池後寺、葛木寺〈葛木臣に賜ふ〉とする。
これをもってしても聖徳太子の出自と秦氏の間には、なにか深いものが有ったことが知れる。
秦氏は何回かに分かれて日本列島へ渡ってきた人々だ。なぜ秦氏は日本へ渡ったのか?なぜ中原から海を渡って朝鮮半島へ亡命したのか?その資料は少ない。中国側にも半島側にもほとんどその典拠となる史料が存在しないからだ。

しかしいま、僕らが法隆寺を訪ねて、その仏像を見つめると・・たしかにそのお姿は見慣れたそれではない。遥かに優雅で異国の・・それもはるか西域の匂いのするお姿である。僕個人が直観として秦氏を漢民族あるいは朝鮮民族ではない!と感じたのは、実は法隆寺を始めた訪ねた40年ほど前である。手にしていたのは名著普及会から再刻された佐伯好郎氏の「景教の研究」だった。佐伯好郎の著書は難渋だ。同時に携えていたのは新人物往来社の「歴史読本臨時増刊 世界 謎のユダヤ」だったことを憶えている。柞木田龍善氏の「日ユ同祖論はここまで立証できる」が掲載されていた。
このとき、僕は禹豆満佐UZUMASAあるいはUTSUMASAという言葉に魅了された。弓月君が融通王とよばれていたこと・・など。その語感に近しいものを感じで、満州の遥か西の草原を連想して胸をときめかせた。
シルクロードは、一本ではない。

この長安の大秦寺と、京都の大秦UZUMASAについて、心の琴線に触れた先人が居た。江戸後期の儒学者、太田錦城である。彼が「梧窓漫筆拾遣」という随筆を書いている。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898479
彼は太秦の広隆寺と長安の大秦寺の間に強い類似性を感じた。
文政3年(1820)太田錦城は京都を訪ねている。そのとき何回か彼は太秦の広隆寺を訪ねている。そのとき内陣の仏像を詳しく調べている。
彼は、日光菩薩、月光菩薩を両脇に携えた薬師如来を見つめている。彼はこう書く。
「本尊は薬師などにて常の仏像なり。左右の脇立に細く長き笠を蒙りて棹の先に銀の月金の日を差し上げたる像なり。仏家のものとは努々思はれず。波斯大秦などの天教を奉ずる家の像設たること明白なり。此等の穿鑿は無用の事なれど此事を知り此事を言ふは天下に我一人なり」と。
太田錦城は、弥勒菩薩半跏思惟像に西域の影を強く感じたのだ。
当時の儒学者は素養として漢籍に通じている。なので太田錦城は「旧唐書/資治通鑑」/西渓話」を引用しながら長安の外来宗教について詳細な考察をしている。
しかし秦氏への言及はない。

前述したように法隆寺は秦氏の寺だ。
そして秦氏は、応神天皇の時代に朝鮮半島の百済国より大挙して渡来した人々である。
したがって、この弥勒菩薩半跏思惟像・薬師如来にも、強く秦氏の願いが籠っているはずだ。

僕が最後に此処を訪ねたのは、この一人旅の時から10年ほど過ぎてママと所帯を持ってからだ。30年くらい前かな。その時は家族を連れだってだった。ママも子供たちも未だ幼かった。
だからママをあいてに、いつもの独り言のようなおしゃべりはしなかった・・と思う。いまなら・・きっと弥勒菩薩半跏思惟像を前に明治の碩学・佐伯好郎の話を滔々としたに違いないね。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました