見出し画像

東京島嶼まぼろし散歩#10/隼人の島を見つめて03

「東海大にいらした海洋考古学者・茂在先生が、伊豆諸島小笠原諸島の人たちは、昔から丸木舟のことを"カノー"と言っていたというお話をされている。日本ではカヌーあるいはカヤックという言葉が張ってきたのは割と最近で、それまでは"えぐり舟"あるいは"くり舟"と呼ばれていたんだ。先生によると、カヌーなる現代語が日本に入ってくると、土地の人たちは"カノー"が訛りに聞こえてきて"カヌー"に入れ替わったそうだ。だからいま伊豆諸島小笠原諸島では"カノー"という言葉は使われていない」
「カヌーってポリネシアの言葉なの?」
「いや、カリブに先住したアラワク族インディアンの言葉だ。これが一般化して丸木舟のことをカヌーと言うようになった。丸木舟は普通にどの沿岸部にも存在した。呼び名は"カノア""カノ""ワカ""ワア""ヴァカ"だ」
「でも伊豆諸島・小笠原は"カノー"だったの?」
「太平洋西側ではアウトトリガーのない丸木舟は"ワアWAA"が多い。でもハワイ語では、単胴のアウトリガーをもった丸木舟のことを"カウカヒKAUKAHI"と呼んでるんだよ。双胴のものを"カウルアKAULUA"といってる。
ハワイ語では"一つ"のことを"カヒKAHI"というんだ。"ふたつ"は"ルアLUA"な」
「ひとつのトリガーがついてKAUがKAUKAHIねね。ふたつがつくとKAULUA・・そのKAUがカノーになったということ?」
「そうだ。佛教大学の黄當時教授という中国語学の先生が、カウ・ラ・ヌイKAU-LA-NUIは(kau = to place, to set, rest = canoe; la = sail;nui = large)で大きな・帆をもつ・カヌーという意味で、カウルア・ヌイKAULUA-NUI (kaulua = double canoe; nui = large)は大きな・双胴のカヌーたという説明をしている。したがってハワイ語の"カウ・ヌイKAU-NUI" (kau = to place, to set, rest = canoe; nui = large)は『大きな・カヌー』という意味だと・・
おそらく伊豆諸島小笠原で使われていた"カノー"の祖語は、君の言うとおりKAUだろうな。
茂在先生は、その著書で古代ポリネシア語と古代日本語が、同じ発音の言葉が多いことを書いてるよ。『記紀』の中や地名に多い。

例えばカノーも古文献にも地名にもたくさん出てくるんだ。南から入ってきた原縄文人たちは丸木舟をKAUあるいはKANOと呼んでいたことが分かる」
「古文献と言うのは、あなたのお得意な日本書紀や古事記のこと?」
「お得意じゃないが・・応神紀と仁徳記に載っている。枯野あるいは軽野と書かれているんだ。すべて丸木舟のことだ」
「へえ!ほんとにカヌーなのね」
引用する。
書記・応神紀五年十月の条「冬十月、科伊豆國、令造船、長十丈。船既成之、試浮于海、便輕泛疾行如馳、故名其船曰枯野。由船輕疾名枯野、是義違焉。若謂輕野、後人訛歟。」
書記・応神紀三十一年八月の条「卅一年秋八月、詔群卿曰「官船名枯野者、伊豆國所貢之船也、是朽之不堪用。然久爲官用、功不可忘、何其船名勿絶而得傳後葉焉。」群卿便被詔、以令有司取其船材爲薪而燒鹽、於是得五百籠鹽、則施之周賜諸國、因令造船。是以、諸國一時貢上五百船、悉集於武庫水門。
當是時、新羅調使共宿武庫、爰於新羅停、忽失火、卽引之及于聚船而多船見焚。由是責新羅人、新羅王聞之、讋然大驚、乃貢能匠者、是猪名部等之始祖也。初枯野船爲鹽薪燒之日、有餘燼、則奇其不燒而獻之。天皇異以令作琴、其音、鏗鏘而遠聆、是時天皇歌之曰、
訶羅怒烏 之褒珥椰枳 之餓阿摩離 虛等珥菟句離 訶枳譬句椰 由羅能斗能 斗那訶能異句離珥 敷例多菟 那豆能紀能 佐椰佐椰」
古事記 下卷-1仁德天皇の条「此之御世、免寸河之西、有一高樹。其樹之影、當旦日者、逮淡道嶋、當夕日者、越高安山。故切是樹以作船、甚捷行之船也、時號其船謂枯野。故以是船、旦夕酌淡道嶋之寒泉、獻大御水也。茲船破壞、以燒鹽、取其燒遺木作琴、其音響七里。爾歌曰、
加良怒袁 志本爾夜岐 斯賀阿麻理 許登爾都久理 賀岐比久夜 由良能斗能 斗那賀能伊久理爾 布禮多都 那豆能紀能 佐夜佐夜
此者志都歌之歌返也。
此天皇御年、捌拾參歲。丁卯年八月十五日崩也。御陵在毛受之耳上原也」
「高速船を枯野あるいは軽野と描いているんだ。これは間違いなくカヌーだな。
それと・・高天原から下界に降りる際にカミサマたちが載った舟は"天の磐船"というんだが。
これは、三か所に載っている。」
「数えたの?」
「ん。古事記にも磐船は出てくるんだ。
『ひさかたの 天の探女が磐船の 泊てし高津は あせにけるかも (巻三、二九二)』
原文では石船だが・・磐船だろうな。
大伴家持が詔に応じるために作った歌の中にもある。
『蜻蛉島 大和の国を 天雲に 磐舟浮べ 艫に舳に 真櫂しじ貫き い漕ぎつつ 国見しせして 天降りまし 払ひ平げ 千代重ね いや継ぎ継ぎに 知らし来る 天の日継と 神ながら 我が大君の 天の下 治めたまへば もののふの 八十伴の男を 撫でたまひ 整へたまひ 食す国も 四方の人をも あぶさはず 恵みたまへば いにしへゆ なかりし瑞 度まねく 申したまひぬ 手抱きて 事なき御代と 天地 日月とともに 万代に 記し継がむぞ やすみしし 我が大君 秋の花 しが色々に 見したまひ 明らめたまひ 酒みづき 栄ゆる今日の あやに貴さ』
日本紀竟宴和歌にも「そらみつに阿麻能伊婆布然(アマノイハフネ)くだししはひじりの御代を渡すとてなり〈藤原忠紀〉」延喜六年(906)とある。ここにもアマノイハフネがある。
堀河百首・秋「彦星の あまの岩ふねふなでして 今夜や磯にいそ枕する〈藤原顕仲〉」(1105‐06頃)とある。
天上の者が載る舟として磐船はスタンダードだったんだろうな」
「記紀の引用となると大喜びね」
「記紀は日本語の宝庫さ。磐船にはバリエーションとして石楠船(いわくすせん)というのがある。
鳥之石楠船とか天之石楠船というのもある。書紀・神産みの段でイザナミが産んだ蛭児を乗せて流したのがこれだ。古事記では『葦船に乗せた』とあるな。
古書によっては、蛭子を乗せたのは鳥磐櫲樟船(とりのいわくすふね)ともある」
「次から次に出てくると、何が何だかわからなるわ」
「おそらく"天の磐船"は、ベースに枯舟が有った。天上人のものなので枯舟あるいは軽舟ではなく磐船と尊んだものとして言ったんだと僕は思うな。これは私見だ。」

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました