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東京散歩・本郷小石川#19/三菱村だった駒込の大和郷

六義園を残した柳澤吉保は武川衆の裔だ。甲斐国北西部の在郷武士団だった武川衆は武田氏が滅ぶことで、その一部が徳川の幕臣として取り込まれた。彼は小人症(ISS: idiopathic short stature)だった。そのことで無為な差別を受けることが多々あったが、生来の聡明さと学識の深さで第5代将軍徳川綱吉は、彼を重用した。それを「綱吉への諂い」とも揶揄されたが、元禄時の頃には大老格にまで昇進している。しかし綱吉死去後は幕政から隠居し、江戸本駒込(東京都文京区本駒込6丁目)へ移り、六義園の造営で晩年を過ごした。
吉保死後、柳澤家は大和郡山へ転封された。しかしそのまま六義園を下屋敷としたので、同地には“大和さま”の名が残った。

明治に入り、六義園は明治政府のものになる。それを自分のものにしたのが、坂本龍馬"海援隊"の金勘定をしていた岩崎弥太郎だ。岩崎弥太郎は機を見る敏に長けた男だった。維新政府が紙幣貨幣全国統一化のために各藩の藩札を買い上げるという話を事前に知ると、10万両を集めてこれで藩札を大量に買占めした。これで莫大な資金を得ている。ちなみにその話を弥太郎にリークしたのは土佐藩士・後藤象二郎である。板垣退助の竹馬の友だ。自由民権運動の雄だった。その資金は生涯岩崎弥太郎が支えた。

岩崎弥太郎はこの資金をもって六義園を明治政府から手に入れている。そして大正時代になると、前述したように三菱財閥三代総帥・岩崎久彌氏が、高級官僚・財界人が住む場所として六義園周辺の土地を(三回に分けて)分譲した。一区画が150~300坪だった。これが「大和郷」である。
したがって<、住んだのは多くが三菱関係者だった。岩崎弥太郎の娘を妻とした第24代首相加藤孝明、第25・28代首相若槻礼次郎。そして岩崎家の縁戚であ幣原喜重郎もこの地に住んでいた。
ちなみに"大和郷"という地名はない。住所としては駒込である。しかし岩崎久彌が分譲した当初から、高級住宅としての規範を守るために「大和郷会」という町内会が組成されている。初代会長は前述・若槻礼次郎だ。この「大和郷会」は今でも存在し、同地の気品と治安雰囲気を保つのに大きく寄与している。

2014年11月発行の「文京区町会連合会創立60周年記念誌・六十年のあゆみ」には以下のようにある。
「本駒込6丁目地区の大部分を占める町会としての「大和郷」は、大正14年に社団法人大和郷会として発足しました。
大和郷会の活動の特色は、いわゆる町会としての役割を超えて、会員福利の増進のための施設の運営、防火・防災は勿論、広く教養、趣味、社会生活の向上に資する教室、講座、講演会開催等のいろいろな生涯学習事業を行っていることにあります。
具体的には、文化部ではコーラス、コントラクトブリッジ、自然観察会、スポーツ部ではゴルフ、ダンス、ハイキングなどのサークルがあって、それぞれ活動しています。

また、これらの活動とは別に、大和郷会として幼稚園を昭和4年に設立し、空襲により園舎が焼失した一時期を除き80有余年にわたって運営してきました。ご幼少の折、現皇后陛下も在園されましたが、現在までに6,130名の卒園生を送り出しています。幼稚園は平成7年4月、学校法人大和郷学園として大和郷会の事業から分離され、現在、独立した学校法人となっています。

昨今、公益法人の制度改革が報じられていますが、大和郷会は平成25年4月から、一般社団法人として新たなスタートを切ることになりました。大和郷会誕生の原点ともいうべき会員相互の共存共助の精神に則り、地域、地縁に由来する共益的な団体として、良好な住環境を維持しつつ、安全で住みよい街づくりを目指しています。」
これからも現在でも十分高機能が維持されていることがわかる。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました