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a Day in the Manhattan#03/1978アンリオとデビー

画家のアンリオは右手の親指が無い。彼は週末になると、NYCの彼処で似顔絵を描いて生活している。僕はよく彼をセントラルパークやMETの脇、ブルックリンプロムナードで見かけたが、いつも左手で書いていた。右手は手袋をして、無意識に隠すようにしていた。だから僕は、彼が左利きなんだろうと勝手に思い込んでいた。
ある日曜の夜、グリニッジヴィレッジにあったアヱスタス aestas・・「夏」という名の店で飲んでいた時。そのアンリオが左前、壁際のテーブルの所にいた。アンリオは近くの芸術家アパートに住んでいる。だから、アヱスタスへ行くと、よく彼の不機嫌に泥酔しきった姿を見かけていた。
その夜は格別な悪酔いぶりだった。一緒に座っていた髭面の男も絵描きらしい。二人ともテーブルの下に画箱を載せたキャリングカートを持っている。目が据わったアンリオが、しきりにその髭面の男に絡んでいた。僕はその様子を、ときおり横目で見た。
と。突然、アンリオが大きな声で言った。
「よし!俺は書く。」
店内の全員が吃驚してアンリオを見た。アンリオは右手の手袋を千切り取ると、親指のない掌を髭面の男の顔の前に突き出した。
「描けなくてしてやったなんぞ言わせない。描いてやる。」アンリオが言った。
そして画箱の中から絵具と筆を出すと、画箱とキャリングカーを結わいていた紐で、絵筆を掌にぐるぐる巻きにし始めた。店中の全員がアンリオを固唾飲んで見つめた。そして立ち上がると、振り向いて後ろの壁をしばらく見つめた。5分ほどだろうか・・しばらくの間見つめた。
僕は思わずカウンターの向こうにいる店主の顔を見てしまった。たしかにびっくりした顔をしていたが、しまいに頷くと、腕組みをしてニヤニヤと笑い始めた。僕は知らなかったんだけど・・実は、アンリオはヴィレッジじゃ知らない人がいないほど有名な、素晴らしい絵描きだったのだ。しかし寡作で、とても生活できるほどの収入は無かったので、市の援助でヴィレッジの芸術家アパートに入っていたのである。街に画箱を持って出て、左手で似顔絵を描くのは、彼の道楽だったのだ。
アンリオは、おもむろに。しかし猛烈な速度で。ただ一本の線で(!)下絵を壁一面に書いた。それは、俯き加減の若い女性の横顔だった。
「デビー・・」「デビーだ・・」「デビーを書くんだ」という囁きが、客席で交わされた。僕は、その時は知らなかったんだけど、その絵はアンリの画箱の横の透明のフォルダーにいつも入れられているスケッチと同じものだっだのだ。
一気に下絵を描き終わると、アンリオは崩れるように椅子に座ってしまった。そして俯いたままになってしまった。しばらくそのままでいたが、一緒に座っていた髭男が、彼の右手から絵筆を外し、そのまま抱えるようにして店を出ていった。
その日から毎日、アンリオはアヱスタスへ通った。絵は少しずつ出来ていった。
僕も気になって、毎日その進捗状態を見に行った。アンリオがアヱスタスへ来る時間はまちまちだった。彼はのっそりと店に入ってくると、まず壁にかかれた絵の前に立ち、しばらく見つめたあと、おもむろに右手へ筆を紐で結わきつける。中指と小指の間に先ず紐を巻き、紐を口にくわえる。それから左手で筆を固定して、口にくわえたまま右手首を回す。その間、アンリオの視線は絵から離れない。
僕は、そんな儀式のようなアンリオの姿を何度も見かけた。そのうち僕は、そのアンリオの絵がそこに書かれているのではなく、壁の中に埋もれていたものをアンリオが掻き出しているような錯覚に陥るようになった。それほど、アンリオの絵と店と町が一体だったのだ。
しかし書き進めば進むほど、アンリオは深酒をした。書きながら呑んだ。そしてしまいには立ち上がれないほど泥酔して、毎晩、後からやってきた髭面の男がアンリオの右手から筆を外し、担ぐようにして連れ帰るようになった。その様子は、あまりにも傷ましかった。そしてひと月あまり。遅い秋にアンリオは死んだ。
絵は2/3ほどで、書き手を失った。

しばらくして。僕はあの日曜日の夜、アンリオに何があったかを、カウンターで髭面の絵描きから聞いた。
「夏の日曜日の天気が良い時は、いつも俺とアンリオはブルックリンハイツのプロムナードへ行くことにしたんだ。爽やかだしな。あそこは絵を書いてもらいたがる客筋もいいんだ。だから小銭稼ぎにはいい場所さ。で。あの日も、いつものようにクラークStから入った角の所に二人でイーゼルを並べて客を待ってたんだよ。内緒でワインのボトルを神袋に入れといて、それを二人で回し飲みしたりしてな。
そしたら、午後の遅い時間。いかにもフランス人らしい夫婦がやってきたんだ。そして片言の英語で『家内の絵を書いてくれないか』と言ったんだよ。でも旦那がそう言う前にもうアンリオと夫人は。見つめあったまま凍り付いていたんだよ。
俺はすぐに判ったよ。アンリオがいつも持ち歩いている画箱の横に付いているフォルダーのなかに収められているスケッチさ。俯き加減の寂しそうな女性を描いた絵だ。間違いなくその人さ。アンリオがいつも言っていたデビーだよ。
デビーとアンリオは、彼がモンマルトルにいたころに同棲していたんだ。でも少し売れるようになると、アンリオは彼女を捨ててNYCへ来ちまったんだ。『その結果がこのザマだ』アンリオは、酔っぱらうと親指のない右手を見せて、そう言ってた。
アンリオは気を取り直して『かしこまりました』と言って、彼女の絵を描き始めた。左手でね。そのうち彼女がアンリオの右手に気がついたんだ。『その手は・・』と言った。『NYCにきて、調子に乗ってね。しっぺ返しで、剃り落されたんです』アンリオが言った。彼女は黙ったままだった。
『できました。お持ちください』とアンリオが、書いた絵を旦那に手渡した時、旦那が気がついたんだ。アンリオの画箱の横にあるスケッチにさ。そして言ったんだよ。『この絵は、若い時の君にそっくりだね』って。
『よかったら、さしあげます』アンリオは、そう言うとスケッチをフォルダーから抜いて、クルクルと丸めて旦那に手渡したんだ。旦那は喜んで受け取ったよ。そしてお金を払おうとしたらアンリオは受け取らなかった。『そのお金で、ぜひ奥様に花束をプレゼントしてください。』そう言ったんだ。
その二人が行ってしまうと、アンリオは無言のまま荷物を片付け始めた。仕方ないから、俺も片づけてその足で一緒にアヱスタスに来たんだ。・・来るんじゃなかった。今はそう思ってるよ。来なけりゃアンリオは死ななかったかもしれない。」
その話を聞いて、僕は沈黙するしかなかった。

この話には後日談がある。
一年後。髭面の男が、独りぼっちでブルックリンハイツのプロムナードでカンバスを広げていたとき。あの時の夫婦がやってきたそうだ。そして「アンリオは?」と髭男に聞いた。
髭男は、夫婦をアヱスタスに案内した。そして2/3しか書き上がっていない絵に夫婦が対面した。しばらく見つめたあと、カバンの中から額装されたスケッチを出した。そして言ったという。
「書かれていないあそこに。この絵を飾ってください。アンリオのために」
どちらがそう言ったのか・・奥さんが?旦那さんが? 僕はこの話を店の主人から聞いたとき。どうしてもそのことは聞けなかった。
グリニッジヴィレッジあったアヱスタス aestas・・「夏」という名の店。その店の奥。右上に額装されたスケッチが掛る書きかけの壁絵の前。その前で毎夜、沢山の恋人たちが食事をし、酒を飲む。そして愛を語り、詰りあい、寄り添い、泣き、悲嘆にくれて別れ話をする。
泡沫(うたたか)に恙(つつが)なく ありやなしやと 想い耽(ふけ)る夜。そんな夏の夜が、ただただ続く。その、沢山の恋人たちの後ろにある壁絵とスケッチのこと。そのことを話題にするカップルは、誰もいない。店主も語らない。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました