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ジンファンデルの話03

8000年ほど前に、アララトの西麓・アナトリア地方から始まった「葡萄汁を発酵させワインを作る」という技術は、6200年前、同地を襲った大旱魃に追われて、人々と共にカスピ海に沿って西進しました。
ワインのサバイバル・ジャーニーです。
なぜ、生きられる場所を求めて西進する人々が、わざわざ葡萄の木を携えていたか? それはワインを作るための葡萄の木が、種子からは作れないからでした。種子から作ると、不思議なことにワイン用に適した葡萄が付く葡萄の木は出来ません。
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実は、葡萄汁からワインを作るには、葡萄汁の中に含まれる糖量・有機物の量・ミネラルの量が絶妙な"ある一点でないとダメ"なんです。それが少しでもズレると、甘すぎて飲めなかったり、スカスカで水っぽい癖にネトネト酵母が残って舌触りの悪いものになったりする。その絶妙な一点を保持した葡萄の木。それを、ヒトらは8000年前にアララトの西麓・アナトリア地方で手に入れました。創世記は"それ"を、ノアが箱舟に載せた葡萄だと書きます。農夫だったノアはアララト山の麓にその葡萄の枝から、葡萄園を作ったのだと。
そんな、稀有な葡萄の木の枝を携えて、人々は大旱魃に追われて新天地を求める旅へ出たのでした。

その旅が、小アジアに達しヒスボラス海峡を渡りバルカン半島へ至るのには、実に3000年の時を必要とした。なんとも長い彷徨の歴史です。その長い彷徨の要所要所で、半農民族だった彼らは、多数の葡萄畑と醸造所を作りました。今世紀に入って、そうした太古の醸造所がコーカサス山脈の南からイラン高原にかけて、そしてカスピ海の西側で続けざまに発見されています。その建造年代を測定すると、見事に彼らが西進していることが確認できます。

その、アララトの西麓・アナトリア地方から始まった「憑かれたような西への旅」は、此処へ来ると途中から北西に進む人々と、南西へ進む人々という二つの流れに大きく別れました。原因はおそらく灌漑技術を確立し、巨大な面積を持つ麦畑を作り始めていた印度ヨーロッパ語族の土地とぶつかったからに相違ありません。
我々が見つめている西からの旅人は、セム語・ハム語を話す人々です。彼らは民族的に異質な印度ヨーロッパ語族の既存勢力との衝突を避けて、周回ルートを取ったと考えられます。
そして、南西へ進む人々はレバント地方を中央・南部へ。
北西に進む人々はレバント山脈に沿って小アジアへ。
前者はフェニキア人となり、地中海へ出る。後者は、そのまま小アジアを。既に同地でも始まっていた巨大農耕文明を避けて、更に西進、ヒスボラス海峡を越えてバルカン地方へと進みました。

ところで。この長いサバイバル・ジャーニーの中で、ワインを作るための葡萄の木も、夫々の土地の葡萄と人工的な交配が重ねられて馴化したに違いありません。おそらく、幾つもの幾つものトライアンドエラーが長い長い時間をかけて繰り返されたはずです。前述の絶妙なポイントを保持したままの品種改良は、気の遠くなるほどの忍耐と時間が必要だったはずです。
その品種改良が、北西ルートを取った人々の葡萄と、南西ルートをとった人々の葡萄に、違う性格を与えました。
彼らが携えた(ノアの)葡萄は、痩せた土地でも猛烈な耐性で生き残る植物です。しかし極端に寒い冬には弱い。枯れてしまう。
北西ルートを取った人々が通った道は山間部であり、まさに葡萄が生き残れない道でした。なので地葡萄の交配で彼らは2000年あまりかけて「耐寒種」を生み出していきます。
一方、南西ルートを進んだ人々には「冬枯れ」の心配は有りませんでした。なので彼らは、より多くの実を付け、より早く収穫できる葡萄の改良を目指した。

こうして、ワインを作るための葡萄。「ノアの葡萄」は、二つの系統樹「耐寒種」「多産種」に分かれていったのです。
あああ。なんとまあ長い前置きでした(^o^;;
実は、カルフォルニアのジンファンデル/南イタリアのプリミティーヴォの祖形であるクロアチアのツェルリェナックは、まさにこの北進ルートを通って寒冷適合種として作られた葡萄だったのです。
フェニキア人たちの手によって地中海沿岸に広げられた「多産な」葡萄たちとは、違うルートでバルカン半島の海岸に辿り着いた葡萄だったのです。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました