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夫婦で歩くプロヴァンス歴史散歩#03/アヴィニョン#03

https://www.youtube.com/watch?v=14K8je1wSbg

博物館からホテルまでは同じ道を通って戻った。午後になって人の出が増えていた。僕はまだガロ・ロマンの酩酊に酔ったままだった。歩きながら頭から消えなかったのは、ローマとその属州のことだった。
アナトリア東部から西へ進んだラテン人たちはイタリア半島北部でポー川に出合い、ポー平原に出会った。そこにはラテン人より遥か文明ヴィッラノーヴァ文化)を持ったエトルニア人がいた。ラテン人は、謂わば侵入者として彼らの地・北イタリアに入ったわけだ。当然、諍いや確執はあっただろう。ところが深刻な状態にならなかったのはなぜか?一番大きな理由はエトルニア人が統一国家を持っていなかったことだと僕は思う。幾つもの部族の集合体がエトルニア人だったのだ。それがラテン人に生き残る隙間を与えたのかもしれない。
ラテン人は優れた灌漑技術を持っていた。エトルニア人は(おそらく)半農半牧社会だった。農作技術は遅れていたのかもしれない。これもまたおそらくだが・・局所的な部分から二つの共働は起きたのではないか?もちろん言語的に異質な民族である。融合は簡単ではない。幾つも諍いを起こしながらも混合は進んだのではないか‥と僕は思う。

このラテン人とエトルニア人の融合が"ローマ人なるもの"を作り上げたのである。
彼らは、紀元前300年代にイタリア半島の統一を果たしている。そして地中海対岸カルタゴを仮想敵国とすることでローマは急速に伸びた。紀元前が終わるころには地中海周辺地域の殆どを支配下に置いた。属州という言葉を使ったのは、カルタゴを墜としてからだろう。NARBONENSIS/MACEDONIA/EPIRUS/ACHAIA/ASIA/BITHNIA ET PONTUSは、かなり早い時期から属州になっている。
では、属州にローマ人の移植は有ったのか? もちろんあった。しかしわずかだった。領有のための支配者たちと、一部の商人たちが移り住んだだけである。属州のローマ化は、人の移植ではなくローマが紡ぎあげたシステムの移植によって行われたのである。
属州はローマと共通公用語を利用し、同じ通貨と度量衡を使用した。属州のエリートたちはラテン語を話し、ローマ人の服装を着た。

ホテルに戻ると、嫁さんは料理教室から戻ってなかった。しばらくロビーのラウンジでワインを飲みながら待ったMusée Lapidaire avignonでもらった幾つかのパンフレットを見た。美しく仕上げられたパンフである。
僕は、パンフレットを見ながらタキトゥスが残した岳父アグリコラの伝記のことを思い出した。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4480082786/ref=dbs_a_def_rwt_bibl_vppi_i3
彼はこう書いている。
「(属州ブリタンニア総督)アグリコラは酋長の子弟に教養学科を学ばせ、資性に磨きをかけ"ブリタンニア(古代イギリス)の人たちの才能は、ガリアの人たちの熱意よりも高く評価される"とおだてたものである。その結果、いままでローマ人の言葉・ラテン語を拒否していた人まで、ローマの雄弁術を熱心に学び始めた。こんな風にしてローマの服装すら尊重されるようになり市民服が流行した。そして次第に横道にそれだし悪徳へと人を誘うもの、たとえば逍遥柱廊、浴場、優雅な饗宴に耽った。これを何も知らない原住民は、文明開化と呼んでいたが、じつは奴隷化を示す一つの特色でしかなかった。」
もともとは属州出身者であり、兵士(騎兵隊)だったタキトゥスは、ローマに染まっていくブリテン人/ガリア人をどう見ていたのか。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました