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東日本大震災から13年/干支ひとまわり➕1年もたったけれど

13年前の東日本大震災の時。みけ子はまだ要介護の両親2人と、当時まだ小学生だった長男、中学生の長女とダンナとの6人で生活してました。介護もあり、震災に遭い、その上にダンナの両親まで一時避難してきて……。

一時期、8人で暮らしていました‼️

*そしてその後、一時的に避難して来ていた義父は震災で住んでいたマンションが全壊してしまったショックが大きかったのか、5月初旬に持病が悪化して亡くなりました。震災関連死とされました。

電気は比較的直ぐに復旧したものの、都市ガスは元通りになるまで丸1ヶ月。そして貯水槽が壊れたので、水道の復旧にもかなり時間がかかりました😓

買い物には大分不便な思いをしました。いつも買い物に行くダイエー(現在のイオン)で買い物するのに、長蛇の列で入店まで3時間以上待たされた記憶があります。車通勤のダンナは給油出来なくて、近所のガソリンスタンドに暗いうちから並んだりしました。

それでも、家には住めたし津波の被害にも遭わず、原発事故の影響もなかったですから。被災したとは言え、まだだいぶマシでしたよ。

そして今宮城県では、震災遺構をどう守るか、震災をどのように伝えて行くかが課題になっているようです。津波で破壊された後に火災が起きた校舎など、多数の震災遺構の保存問題。津波で家族を亡くした人にとっては辛くて思い出したくない事でしょう。

でも、全てキレイに復旧された高い堤防や整地された土地では、震災を次世代に語り継ぐのが難しい。いくら想像力を働かせても実感が湧かないでしょう。震災の恐ろしさや防災意識を伝えるのに、震災遺構は重要な役割をこれからも果たして行くのだと思います。

ただ、みけ子は津波被害を間近に感じられるそういった被災建物を、実は見に行った事がありません。未だに怖くて直接には見られないのです。実際にその地で被害に遭った、地元の人たちは今もきっと辛く苦しい気持ちを抱えているのだと想像します。例えどんなに現在は元気に前を向いていたとしても。

宮城の人間でありながら、震災遺構は見に行った事がない人がここに居ます。多分、自分から進んでそういう場所に行く気持ちには、将来的にもなれないと思います。実際に目にしたらその場で泣き崩れてしまうかもしれない。そんな気持ちがします。

震災で亡くなった多くの人がいる事を思うと、干支が何回りしようがやはり眼にするのが苦しい。自分でさえそうなのに、被害を受けた人にとっては終わってしまった過去の出来事としては片付けられないのかも、という気がしています。

13年目の3.11。亡くなられた多くの方々のご冥福をお祈りいたします。

*震災遺構を残す事に反対、とかではありません。次世代に震災の怖さを伝えて行く必要は十分に理解しています。

*津波で甚大な被害を受けた地域でも、「いつまでも被災者じゃない。自分たちは前を向いて希望を持って進んでいる」と宣言している方も当然いらっしゃることは承知しています。このnoteでは、自分個人の今現在の気持ちを正直に記しました。




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