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「近代建築研究会」 好奇心に突き動かされて建築探偵をやってた頃

20代〜30代にかけてのことだった。古いうつわとか建物が大好きだったワタシは、どこかに出かける度にキズものの伊万里の蕎麦猪口を買ったり、古い建物の写真を撮ったりしていた。デジカメもスマホもない頃で主に「写るんです」(使い切りの押すだけカメラ)で写した。当然、大した写真ではない。

古い建物はとても魅力的だ。その時代に特有のデザインや工法があり、細かいところに目を凝らせば非常に凝った細工が施されていたりする。今はほぼ使われていない当時の材料が使われている事も多い。

年月が経って色褪せていたり多少の傷みがあってもなぜか不思議に心惹かれる。どんな人がいつ建て、どうやって暮らし使われて来たのだろう?想像力を働かせると建物が新しかった当時はどんなにか輝いてそこにあったかなど、思いが無限に広がって行くような気持ちがした。

気に入ったうつわ程度ならばちょっとお金を出す事で自分の物にできる。だけど建物は写真に残す程度の事しか出来ない。不動産だもん、気軽に買ったり所有したりなんかできるもんじゃないわ(笑)

古い建物に興味を持ったキッカケはこの本↓
左が1986年の第1刷、右が2014年の復刻版。どちらも私の蔵書。

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20代の半ば、一人暮らしをしていた頃に書店の平台に置いてあったこの本を見つけたのだ。ケチケチ暮らしていたけど(今も同じだ)興味を惹かれる本だけは迷わず買っていた。私はこの本を持って東京や横浜に出かけ、地元仙台でも気になる古い建物を見に行ってはカメラに収めた。今でも東京有楽町の三信ビルのアーケード街でお茶したことが忘れられない。昭和初期にタイムスリップしたような空間だった。


写真を撮り続けただけで写真を極める方向には行かず、何か自分なりに古い建物を自分の物として愛でられないか……と思っていた。そして思い至ったのが撮り溜めた写真を元に版画を作る事だった。その頃は毎年年賀状を木版画で作っていたからだ。ある程度の作品が溜まった時、思い切って版画展を開いてみた。

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↑1995年11月、エルパーク仙台の催物案内と木版画にした仙台の建物

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↑木版画展の初日の写真が1枚だけ残っていた。

小さな版画展でことさら話題にもならなかったけど、古い建物探訪は続けたいと思った。無料で配布されていたタウン情報誌に「古い建物が好きなので何らかの形で記録したい。仙台の街中の古い建物知ってる方教えて下さい」というメッセージを掲載してもらった。その小さな発信を見つけて連絡をくれたのが、後に建物保存の活動を共に始めることになった遠田さん(仮名)だった。私のそのタウン誌の発信に答えてくれたのは遠田さんただ一人だけ。その上彼女がそのタウン誌を手にしたのは後にも先にもその時一度切りで、その後は見かけた事が無いと言う。

初めて会うその人と電力ビル1階で待ち合わせした。現れたのは私と同世代の女性だった。直ぐに意気投合して市内の建物を調べて一緒に見に行くことになった。その行動が何かにつながるという気持ちは当時はまるでなかった。全くもってただ「好きだし面白い❣️」という意識で動いていただけだ。まるで子供だね。

その時便宜上で命名した「近代建築研究会」という肩書を印刷した名刺を持って、主に市内の古い建物を見に行き、写真を撮った。所有者さんにお願いして内部を見学させてもらったり話を聞かせていただいた。図書館の文献も調べた。ただもうひたすら楽しいからそうしただけだった。

↓「近代建築研究会」2年目の時に参加した仙台市の景観サポーターでのミーティングの様子。左端の青年は現在映画監督をしている石川慶氏ではないかと思うが、確証はない。
この青年、当時東北大生だった。

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「蜜蜂と遠雷」を監督したのは彼です。

ちょっと話がずれた。
結局私が版画展を開いたのはこの1回だけだったが、古い建物は意識して残そうとしないとただ壊されてしまうだけだと悟った。景観サポーター活動で当時近所に住んでいて、気軽な散歩コースであり通勤路でもあった、片平キャンパスの建築群の素晴らしさに改めて気付いたのも大きかった。

「これってもしかしたら社会的に意味のあることなのかも?」と思い始めた。最初は何か目標があって動いていた訳ではないが、いつの間にか何かに導かれるように一つの方向に向かって動いていた感じだった。

そんな自分達の好奇心のみで動いていた事が、少しずつ広がり仲間が集まった。それが「片平たてもの應援團」だった。仙台市の中心部に位置する東北大学片平キャンパスの古い建物群が移転と取り壊しの危機に瀕していた。

この辺りの流れは今思い出しても不思議な感じがする。個人的な好奇心と古いモノ好きで始めたことが、いつの間にか結構大きなムーブメントになっていた。ほんの小さな始まりが大きな渦になったのだ。

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↑たてもの應援團結成2年目、他団体との共催で建築探偵で東大教授の藤森照信氏を迎えてのシンポジウム開催❗️

大人数の市民活動団体の運営など、自分の手に余ることばかりだった。それでも言い出しっぺでは投げ出すこともできずに運営に関わり続けた。次に立ち上げた別の市民活動団体も含め一定の成果が出て、ようやく活動に区切りをつける事になったのは、始めてから12年が経過した後だったかと思う。干支が一回りしちゃったよ。

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↑子連れで市民活動。長女はこの頃「こみけちゃん」と呼ばれていた。(みけ子の子供だから)

「近代建築研究会」と名付けて動き始め、妊娠中の大きなお腹でドスドス歩き回り(笑)長女が生まれても子供連れで市民活動をしていた。今思い返すと、やっぱり自分は常識はずれのおかしな人でしかない💦

色々やっていた時の資料は、保管場所もないので大部分を大学の研究室やまちづくりNPOに寄贈したり処分したりで手元には残っていない。その中で奇跡的に手元に残っていたのが、建物保存活動の最初のきっかけになった版画展の告知資料だ。

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市民活動の成果として保存が決まった、東北大学片平キャンパスの近代建築群は現在登録文化財になり、次世代に確実に受け継がれることになった。


大家として土地や建物にやたらとこだわってしまうのは、やっぱりこのあたりが原点なのだろうと思う。今もやっぱり古い建物には心惹かれ続けている。










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